方法を知ることは意味が無い
「手がピタッと相手に触れる」
これは、武道でも明鏡塾でも共通していることだ。
で、「手をピタッと」という訓練をする。
もちろん、それはそれで間違いではない。
手を使えていない人が多いので、その工夫も大事だ。
しかし、それよりも、何か道具を使う事だ。
道具が手に馴染んでくるようにすることの方が大事だ。
「どうして?」でないと、「相手」つまり、自分以外の何かに対する「手」にはならないからだ。
自分以外の何かに、というのは、その意識が働くか働かないか、である。
例えば、ノコギリで木を切る。
ノコギリを持ったことの無い人、木を切った事の無い人にとっては、ノコギリを持つ手も、引く腕もガチガチに力む。
まず、それを知るということだ。
そして、その力みを気を切りながら工夫をするのだ。
「しながら」でないと、効果は無い。
当たり前だが、ノコギリを引いていない時は力まないからだ。
そして、「きれいに切りたい」という目的を持つ。
そうすると、いつしかキレイに、力み無くキレるようになる。
同時に、ノコギリに馴染んだ手になっているということだ。
ノコギリに「ピタッと」になっているのだ。
大方の人は、「ピタッとの方法」を考える。
そうすると、それが出来たとしてもノコギリにピタッとの手にはならない。
何故なら、ノコギリで気を切り美しく仕上げるには、取り組んでいないからだ。
それが「方法を知る」ということの抜け落ちる点だ。
だから、方法を知っても意味が無いというのだ。