出来ないことを目指すのではなく
例えば、先日は刀の使い方の稽古をした。
どうすれば鎧の上から斬っても、ダメージを与える事が出来るか?
それには体重が刀や槍、棒に体重が乗らなければいけない。
「じゃあ、こうしてみようか」アイディアが浮びそれをやってみる。
ミットを持って受けてくれている弟子が倒れてしまった。
体重が細い竹に乗ったということの結果だ。
というアイディアは浮かぶが、浮かんだ時は出来ている時なのだ。
それをやろう、この場合であれば、刀に体重を乗せようと、この形で稽古をした事がない。
その意味で、私は人が言う技、武道での一つの技、そういった事を稽古をした事がないのだ。
武道の形として「これを試そう」と湧き上がって来た時には、それが出来ているのだ。
こういう自分自身を見つめていると、人は出来た時にしか出来ない、と思う。
出来ないことは出来ないのだ。
「何を言うのだ?」と思うだろう。
一つは「当たり前だ、出来ないことは誰にも出来ないではないか」とおっしゃるだろう。
しかし、そこには「出来ないから練習をする、稽古をする」がある筈だ。
私が言うのは、その「出来ないこと」ということを目指しても出来ないということだ。
例え出来たとしても、そのことだけにしか通用しないから、何かしら状況が変わったり、という変化の中では対応できる「出来た」にはならないというのだ。
今、話しているのは武道の話だが、何にでも共通する話なのだ。
これなら分かるかも、私は突きの稽古はしないが、胸骨操作は徹底的にやるし、連動も、肘も、それらは徹底的にやる。
だから、たまに弟子にミットを持たせ突きをすると、吹っ飛んでしまって私が驚く。
吹っ飛んでしまう突きをやりたくて、吹っ飛ぶように稽古を重ねるとする。
しかし、その稽古、その発想であれば、胸骨操作も連動も、体重の移動も、肘も膝も「どう使うのか」というところにはたどり着かないだろう。
私の身体に関する考え方は、純日本製だ。
古い建築物から、あるいは、その建築法から、そして、様々な日本の文化から吸収したものだ。
私はそれらを稽古することで、突きも投げも刀も、ダンスも、色々なアスリート達を教えられるようになっている。
先日も、元トライアスロンのオリンピック選手と「走る」について、私のアイディアを提供した。
もちろん、それは単なる「走る」という動作のことではない。
人は何を目指すのかで大きく違ってくるのだ。
まして、20年30年と時間が経てば、圧倒的な違いになって現れるのだ。
■医師も薦める、武道家日野晃が教える医療従事者の為の「明鏡塾」大阪体験セミナーは4月21日(土曜日)午後からを予定しています。
東京の体験セミナーは4月29日を予定しています。
定員はどちらも残り5席です。