人は目先の快を求めるもの
例えば、「◯◯の方法を習ったら、これが出来るようになる」というキャッチコピーがあるとする。
あるいは、これを知ると〇〇が出来る様になる、というのもある。
これらのキャッチコピーは、きっと大昔からあるのだと思う。
人は、楽をするのが好きだからだし、楽を求めているからだ。
しかしそれは、人が求めているのではなく、「快を求めて不快を避ける」という本能だ。
だから、そこに人は群がって当然だ。
もちろん、私も例外なく楽を求めているし快を求める。
しかし、確かに働きとしては「快を求める」のだが、何を「快」とするのかという指令は、その人が出すものだ。
私の「快」は、果てしなく遠いところに設定した。
だから、目先の「快」を快とは思わない癖がついたのだ。
いずれにしても、目先の快を求めると、薬物依存の如く、求め続けてしまうものだ。
同じように、私の快も到着したら、直ぐにその上を求めてしまう。
そういう依存症だ。
もちろん、それを選んでいるのは自分だ。