自己防衛本能の誤作動

合気道や柔術、柔道、レスリングなどをやっている人は、「技」として相手の腕や手首を取るのが上手だ。
それは、理学療法士や整体師が患者さんの腕や手を触るよりも的を得ている。
しかし、腕や手を取ることが出来ても、触れることは出来ていない。
「????」になるだろう。

「技」として、というところでは、相手を痛めつけたり、投げたり、決めてしまったりが目的だ。
だから、少々乱暴でも問題は無い。
但し、その少々乱暴が、相手にとっては違和感だから、反射的にどういった反撃をもたらすかは分からない、というリスクがある。
もちろん、それが腕や手首を取ることの本質だが、大方はその次の投げたり、決めたりに焦点を当てているから、そこには気付かない。
スポーツということになれば、勝つことが目的だから本当に関係がない。

もう10数年前になるだろうか、ある学会に所属していた時期がある。
もちろん、「身体」という冠があったから所属してみたのだ。
そこのセミナーが開かれたので参加した。
ある国立大学の教授が指導していた。
その中のワークで全員が車座に座り、隣の人の足を「触る」のだ。
そして、その触られた感じを楽しむのだという。

教授が「どうでしたか?」と、全員に感想を求めた。
「温かくなり気持ちよくなりました」大方の人の感想だった。
ふざけた人は「繋がっているような感覚がありました」と言っていた。
この感想には、思わず「そこへ行くか、嘘やろ」と口から出そうになった。

私は手を上げて「気持ち悪かったです」と答えた。
この感想に教授も受講者も全員フリーズし、次に私の感想を無視をしたのだ。
つまり、そんな感想が出るなどとは夢にも思っていなかったから、対応できなかったのだ。

それはどういう意味だろう?
一番肝心のところが抜け落ちているのだ。
それは、現在の日本の状態とリンクする。
例えば、小学生に腰痛が多い、と医療関係から統計が集まると、腰痛対策が行われる。
例えば、ランドセルを軽くするだの、腰痛体操をさせるだの様々だ。
しかし、そんな対処療法的な事をせずに、身体を使って汗を流して遊ばせたら良いだけだ。
この肝心の部分に、どうして手を付けないのかが不思議でならないのだ。

もちろん、それは、授業に価値があり、その先にある進学に価値があるから、その時間を削ぐわけにはいかない、という暗黙の掟があるからだ。
もちろん、親もそう思っているからだろう。
それくらい、教育や学問が、実際とは遊離してしまっているということだ。

これと同じで、隣の人に触れられて「温かくて気持ちよかった」というのは、泥棒に押し入られているのに、彼は言葉使いが丁寧だった。
縛るのが優しかった、と言っているのと同じだ。
もう一つある。
この場での「温かくて気持ちが良かった」という発言は、この学会のセミナーに出ていることに価値を置いているからというのもある。
あるいは、社会的な付き合いが優先され、「気持ち悪い」という普通の感覚を遮断しているのか、そのどちらかだ。
最悪だ。
そのセミナーの受講者の殆どが学校の教師だった。

単に、実際には、身体の持つ、あるいは、生命の持つ違和感を感じ取る能力が欠落しているだけであり、本当はそこを探求しなければならないポイントだ。
しかし、当然ここを突っ込もうとすると、自分自身の持つ背景を整理する必要が現れてくる。
そして、何らかの形で自分自身の閉じた意識、閉じた感覚を白日の下に晒さなければならない。
そこには自己防衛本能が働き、絶対に突っ込まないのだ。
「触れる」という行為は、そういったことが明確に現れることなのだ。
もちろん、「伝える」も「聴く」も同じなのだが。

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