感覚、この曖昧な働き

人の持つ働きの中に「五感」と呼んでいる感覚器官と感覚がある。
もちろん、それが本当にそうかどうかは曖昧だ。
曖昧というのは、感覚というものは互いに影響し合っており、定かなものではないということだ。
その意味で「五感」と呼ぶこと自体に無理があるということだ。

突出した事、例えば、それぞれを取り出したら、五感ということに落ち着くだろうが、取り出せなければ、相当曖昧なものだ。
目の前に好物のお酒や食べ物があったとしても、目を閉じて食べれば、また鼻を摘み匂いを嗅げない状態にすれば、味覚は変わってしまう。
熱いものに触れた時、熱いのか冷たいのか痛いのかを判別できない。
こういった事に限らず、時間の感覚、距離に対する感覚、方向に対する感覚他、感覚と呼ばれるものは全て、互いに影響し合ったり、心理や生理的な働き、情緒などの影響を直接受けるので、頼りないのだ。
そして、例えば40℃のお風呂を心地よいという人もおれば、温いから頼りない、という人もいる。
つまり、感覚には個人差が有りすぎるものでもあるのだ。
その意味では、つまり、鍛えられていない感覚は、共有することは出来ないものなのだ。
それは、鍛えていない五感であれば、ということで、一般の人の五感ということだ。

逆に、音楽家の耳や、職人さんの触覚、料理人の味覚等々、その業種に特化し鍛えられたものであれば、初めて五感と呼べる働き、つまり、「感覚」と呼べるものになっているのだ。
だから、巷で「五感を使って」とか「感覚を使って」という言葉があった時、どの程度鍛えているのかまず知りたくなる。
鍛えられていない場合は、自分の都合の「感覚」であって、そこに客観性、あるいは、共有する為の「何か」は無い。
だから、どの感覚のどのレベルなら正しいのか、あるいは間違っているのかを判定できる筈もないのだ。
その意味で「感覚を共有する」というのは、相当難しいことだということだ。

難しくする原因は、鍛えられていないという事の他に、言語化の問題も同時に付きまとってくる。
感覚されていることを、どんな言葉に置き換えるのか、という問題もある。
共有する為には、そういったこと全体を練り上げていかなければならない。

とはいうものの「明鏡塾」や「武道」では、この「感覚」を中心に据えていると言っても過言ではない。
だから、徹底的にこの「感覚」を鍛えるのだ。
明日は、「明鏡塾・大阪」だ。
それこそ、一日中感覚と向き合う事になる。
だから、鍛えられていくのだ。

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