全ては繋がっている、がそれは
海外で武道のワークショップをしていると、日本以上に「人そのもの」を理解できることがある。
色々あるが、私のワークショップに来る人は、様々な日本の伝統武道と呼ばれるもの、勝手に呼んでいるものを習った人、あるいは、その先生が多い。
もちろん、中国拳法系の人も多数いる。
そういった色々なジャンルには、固有の教えやルールがあり、そこに価値を置き、黒帯とか初段・二段とレベルを現している。
もちろん、そこには共通の価値はない。
それぞれのジャンルで言えば、ということだ。
厳密な教えがあるところ、つまり、ある言い方をすれば教育が行き届いているところ、そうではないところという具合だ。
当たり前のことだが、それによってそれぞれの現れが異なる。
厳密にやっていても、その厳密が「何に対してなのか」で、また変わる。
そういった、色々な人をみていて、つくづく教育というのは難しいと感じる。
もちろん、それはダンサーでも同じだ。
パリのオペラ座の生徒と、誰にも習っていないダンサーとでは、取り組み方が全く違う。
もちろん、出来上がりも違う。
観客の前でどうなのか、という事となると、それはまた別の問題がある。
観客の好みという問題が入るからだ。
そんなことを考えながら、今、フランスでワークショップを開いている。
という具合に、それこそ厳密に考えていくと、どこからどこまで伝えるのが良いのかが分からなくなる。
食い付きの良いように伝えられるのが一番だ。
だから「遊んでくれ」と言う。
この「遊んでくれ」は日本では通じない。
はしゃぐことは出来ても、遊べない人が多いのだ。
遊びだから、色々と新しいアイディアが湧くのだが。
こんな私自身の持つ疑問、あるいは問題を、あらゆる場面で考える。
だから、全部が繋がるのだし、何か一つをやっていても、それが全部の繋がっていくのだ。
という、これも私自身の教育なのだ。
「武禅おさらい会」をするが、そこでもそういったように、自分自身の何に当てはめるのか、という展開が大事だ。
だから、最終回「明鏡塾」の受講者が多数参加したが、それぞれにかなりの問題を発見し持ち帰ったのだ。
誰が「武禅」を受けているのか、誰が「明鏡塾」を受けているのか。
そこが明確であればあるほど、遊びもうまれるし、持ち帰るものも増えるのだ。
もちろん、この言葉の連なりの中に、相当抜け落ちている言葉がある。
それを発見する、あるいは気付くのも訓練だ。