会場と感覚と関係
いよいよ最終日。
会場が定着するまで、やはり時間がかかるのだろう。
今回の会場、前回、前々回と会場を転々としているが、こちらの希望にきっちりはまる会場は少ない。
もちろん、当たり前だ。
だれも、日野武道研究所の為に会場を作ってくれているのではないからだ。
だから、転々とするしかない。
あるいは、こちらが会場に合わせていくしかない。
そういった事は、「関係」という切り口で見れば、どんなことでも同じだ。
どんな人でも、100%自分のままで相手に対している「筈」はない。
何らかの形で気遣いが出ている「筈」だ。
しかし、実際はそうではない。
「筈」なだけ、私の持つ幻想に過ぎない。
それは人を見ていたら感じる。
もちろん、当人は気遣っていると思っているだろうが、客観的にみると何の気遣いもない。
私のワークの殆どは組んでするから、そこが良く見えるのだ。
面白い一コマがあった。常連の若い女性が、中年の女性に対しての自分の感想を話す場面だ。
その若い女性が私にアドバイスを求めた。
彼女の感覚は、彼女の感覚として正しいのだが、その感覚は客観的にどうなのか?という、検証がなされていない。
もちろん、そんな事が大事なことだとは知らないから仕方がないのだが。
つまり、自分の感覚を疑えというのは、感覚も自分の成長と共に成長させているのか、という意味である。
逆に、感覚を成長させれば、自分もその感覚にふさわしい自分になる、つまり、成長するということだ。
その若い女性は「気持ち悪い」と感じていた。
それはそれでよいのだが、その感覚に対して疑わないとしたら、それは自分の殻からでない幼い感覚のままだということだ。
それは、「気持ちが悪いから付き合わない」というところに発展するのだ。
そして、もう一つある。
その感覚は磨かれたものなのかどうかだ。
単なる自分の持つ感覚か、様々な体験を経てそこから感覚ということに焦点を当て、研鑽されたものかどうなのかだ。
どんなことでも、個人のものだが、個人が対他人と、とした時、そういった改めて自分を見つめる、その上で、ということが必要なのだ。
と、考えられる「感性」を持たなければ、いつまでたっても「自分」のままだ。
これから最終日、会場へ。
昨日受講してくれた、神戸大で教鞭をとる関さん。
10年前の拙著「ウイリアム・フォーサイス、武道家日野晃と出会う」を読んでくれていた。