自己分析をする人の不思議
昨日の続きになるが、書かれている言葉で分からないものが沢山ある。
その多くは、自己分析しているものだ。
例えば、「○○な相手を受けて入れられないが、受け入れられるようになりたい」とか「××な私ですが、○○になりたい」というような言葉だ。
何が分からないかというと、それだけ自分の事を分かっているのなら、自分で何とか出来る筈だ。
また、○○になりたい、とするなら、そうすればよいだけだ。
どうして、それだけ自分の事を分かっているのに、わざわざ自分の外に言葉として出す必要があるのか?そこが分からないのだ。
私はそういったタイプの人間ではないから、人前にそういった言葉を晒すのを恥と考えている。
つまり、判っているなら人に知られる前にさっさとやれ、という考え方だ。
また、その自分を変える為に、例えば私の主宰する「武禅」へきたり、巷にある多くのセミナーに行く。
それが分からない事の一つだ。
もちろん、何かしらの知識や体験を得て、その知識で自分を動かせることもある。
その意味では、そういったセミナーに行くのは有意義だ。
そして、本を読むのも有意義だ。
しかし、どうもそういった匂いはしない。
つまり、棚からぼた餅が落ちてこないか、あるいは、宝くじがあたるような、また、秘密兵器を手に入れるような。
そんな匂いがして仕方が無いのだ。
自己分析出来るのであれば、自分を改革することくらい容易いことだ。
自分の変えたい部分が、ある状況で気付いたら、その場で返れば良いだけだ。
その繰り返しが、嫌な自分を変えてくれるのだ。
それが一番の近道でもある。
「武禅」は後2席です。