言葉と自分
何時もながら「すなお」とはどういうことか?と考える。
すなおに人の話を聞く、すなおに取り組む、すなおな人等々。
この言葉の実体が分からないのだ。
一つハッキリしているのが、色々なジャンルで素晴らしい人は全部すなおだということだ。
では一体何を見て、あるいは、何を基準にすなおな人と判断しているのか。
あるいは、そういった判断を通り越しているのだが、その事を自分自身が感じ取れていないのか。
この辺りが定かではない。
では逆にすなおではない人と判断しているのはどこか。
それは、どんなことでも自分の持つ理屈に当てはめる人だ。
そして、自分の理屈の中だけで社会を歩いていることを知らない、気付いていない人だ。
としか言いようがない。
こういった人との会話は弾まない。
どんな話題を持ち出しても、自分の理屈を話すだけになるからだ。自分の言いたいことを言いたいだけ、になっているのだ。
もちろん、当人は気付いていない。
根本的に、自分は今何をしているのかを知らないのだ。
例えば「今が大事、今しかない」と巷ではそういった言葉が溢れているが、それを知ってはいるが、実際にそうしていない人だ。
実際にそうしていない人にとって言葉は大事なのだ。
その言葉を知っている事が、自分の拠り所だからだ。
実際にそうしている人は、不思議と持つ言葉が少ない。
「している」からだ。
その意味で、多くの人は言葉の持ち方を間違っているのだ。
もちろん、すなおではない人は、その典型である。