本当の自分を目指して
東京ワーク・ショップは6月2.3.4.5日です
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日本には素晴らしい言葉がある。
「心身一如」だ。
本当の自分だの、自分の中の自分だの、耳障りの良い言葉、一見わかり易い言葉が世に出回り、それらの言葉に振り回され目が回っている人が沢山いる。
では「本当の自分」というのは一体何なのか?
もちろん、それが分からないから、勉強をするのだ、とおっしゃるだろう。
しかし、そこで「本当の自分」という問題、あるいは、考え方は必要なのか?と問うた事があるのか?と聞きたい。
食事をする自分は嘘の自分なのか、トイレに行く自分は本当の自分なのか、あくびをする自分は嘘の自分なのか?といった、くだらない質問を自分に投げかけてみれば良い。
大阪ではこういった類は「はぁ、何の話や」となる。
嘘の自分も、本当の自分も無い。
それは単なる切り口であって、そこにそういった実体などある筈もないのだ。
「本当の自分」という言葉が、本当に必要なのか?単純に問うて見る必要がある。
それを問うている自分が間違いなく自分なのだ。
「本当の自分」なる言葉、それらは外国製の言葉、翻訳された日本語だ。
もちろん、それらを作り出した外国の人の中には真剣に、そして科学的にそれらを検出させた人もいる。
その意味で、その言葉を冒涜するのではない。
日本で生まれた日本語と、こういった外国の言葉の違いはどこにあるのかというと、例えば、ここでいう「心身一如」は、本質であり「本当の自分」というのは、何かに対しての説明の一つという違いだ。
外国の言葉は、この説明という文化が優れているので、それを翻訳した場合、非常に分かりやすく感じるものだ。
だから、間違っているというのではない。
それが文化の違いなのだ。
「心身一如」という言葉は、曹洞宗を作った道元禅師の言葉だ。
それを体現するために修行がある。
外国製の場合、勉強的に理論を学ぶ事で、例えば「本当の自分」を目指し、結果出会えるとしている。
が、日本の場合は、方法は習わない。
方法は修行だけだ。
そして日々の生活だ。
修行や仕事なり作業なりをすることで、その仕事や作業を完遂させる事を目指す、あるいは、それを実現させる為の技術習得を目指す。
それが、自分自身の性癖なり指向性なりを表出させる。
表出するから、そこに自分自身の未熟さを見いだせるのだ。
見いだせるから、それを修正することができるという図式だ。
しかし、あくまでもそこには技術や作業、修行に携わるという現実を持っている。
しかし、この「本当の自分」という言葉を見て思い出すことがある。
小学生の頃「本当の自分は本当はこうだ」と空想を膨らませたり、そんな遊びをしたことだ。
また、ジャズをやっていた頃、それでは食べられない時期があり、他の職業を持っていた。
その時、そこで知り合った職人が「俺は、これが本当の自分ではなく、本当はサーファーや」と言っていたのも思い出した。
「アホか、本当はサーファーやったら、職人をせずにそれやれや。お前は中途半端な職人や」
日本では、修行を通して「心身一如」を目指した。
現代なら仕事を通してということになるだろう。
当然、そこにはリスクが付いている。
修行なら死があるかもしれないし大病を患うかもしれない。
仕事ならストレスを山ほど抱えるかもしれない。
そういったリスクや葛藤があるからこそ、こころの強さというようなものが養われていったり、成長したりするのだ。
では、ここで言うリスクとは何か。
自分自身の思考やこころの許容幅に対するものだ。
それを取り払う、あるいは越えて行く時に起こる現象だ。
その事が、自分の持つこころや思考の幅を広げると同時に、より応用の効く自分になっていくのだ。
だから、そこから考えると決してリスクではない。
ただ、ここの自己防御は堅固だ。
だから、体調を崩したりと身体的変化が起こるのだ。
しかし、勉強をすることのどこにリスクがあるのだろう。
本当の自分は、「本当の自分」を勉強している自分だ。
つまり、本当の自分を本当に探してはいないということだ。