人としての向かい合い
朝からの雪はお昼には止み、陽が差してきた。
確定申告に行ったが、忘れ物が発覚。
「それ、多分ごみと一緒に捨てたから無いよ」だ。
ということで、「武禅」に取り掛かる。
といっても、カリキュラムのマイナーチェンジを考えるだけだが。
「どうすれば?」だ。
もちろん、この「どうすれば?」は、武道でも「明鏡塾」でも、とにかく、私が伝える為に活動をしている全てがこれだ。
だから、ワークショップでも少しずつ変化する。
その事で、初めての人でも理解しやすくなる。
もちろん、それが良いのか悪いのかは分からない。
少なくとも、自分で考えるという力をもぎ取っているのだけは確かだ。
しかし、逆に早く理解できるから、それを体感できるのも早い筈だ。
とすると、その体感を目安に考える事が出来るだろう、という考えから、マイナーチェンジを繰り返すのだ。
その目に見える成果が「明鏡塾」だ。
1期より2期、2期より3期と、体感率が上がり、同時に獲得率が上昇している事でそれが分かる。
「武禅」の難しいところは、人間そのもの、自分そのものとの対峙だからだ。
職業としての技術ではなく、人間としての在り様のようなものだからだ。
人として、人と向かい合う、職業として向かい合う。
同じ様なものだが、深さが変わる。
だから、どれだけ自分に深く突き刺す事が出来るかが重要なポイントになる。
「武禅」を振り出しにした「向かい合い」は、ワークショップでも「明鏡塾」でもやる。
もちろん、そもそもは私自身の武道からの気付きだ。
武道の場合は、相手がいて初めて成立する。
そこで人と真正面から対峙する、そして関係する。
この何とも当たり前の事が、日常では希薄になっていることに気付いたのだ。
木刀を共に持ち対峙する。
初心者の段階では、相手が自分に仕掛ける攻撃に対する予測や、読みという雑念が働く。
それが働いている限り、本当の意味で相手を感じ取ることが出来ない。
つまり、自分の頭の中の作業にしか目が向いていない状態だから、相手を無視しているのと同じだからだ。
冷静に考えれば分かる事だが、人の動きや、攻撃をどうするのかを、予測すること等不可能だ。
あるいは、予測が外れたらたちまち自分自身の生命が危うくなる。
生死という事を前提とした時、そんな賭けのようなことが出来る筈も無い。
そして、何よりも、当たり前のことだが、「相手は私ではない」からだ。
そういったことに、稽古を通して気付いていった。
そういったところから、人は対峙している時、その頭の中はどうなっているのか?を問題にしたのだ。
もしも、そういった雑念状態であるなら、「関係」という状態を生み出す事は出来ない。
社会的にいう関係は、誰しも出来てはいるが、その根本である、人という生命体としての関係ではない。
そこをどうすれば体感できるか?
その意味でのマイナーチェンジなのだ。
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