明日は楽日
案の定、寝転んでのワークが難しいくらいの人数だった。
それでもめげずに寝転んでのワークをした。
笑いの中で、どんどん難しくなる。
一般的な難しいではなく、数学と同じで入り口をきちんとやっておかなければ、前には進めないという難しさだ。
「感じる」という外見の動きを大事だと捉えたら、もう前には進めない。
つまり、意識を切り替えるという作業を要求するワークだということだ。
そういった質問も相当あった。
「身体を意識したいのですが、どうすれば良いのですか」一般的には、こうすれば良いと答えが出るだろう。
しかし、私のワークではその答えはでない。
まず、「身体を意識するというのは、どういう意味なのですか」と聞き返す。
巷には、そういった言葉が出回っているが、その言葉の実体などある筈もない。
もしあるのなら見せて欲しい。
答えてほしいのではなく、実際に見せて欲しいものだ。
その言葉ではなく、「実際にあなたの聞きたいこと、問題点は何ですか」と聞き返すと、具体的な質問や問題がでる。
それなら答えられる。
つまり、身体を意識するというのは、何かの作業において、その作業が思うようにいかない、あるいは、思うように身体操作が出来ない、という実体があり、だから、その作業をしている身体のどこに注意を向けるか、あるいは、向けてはいけないか。
それが身体を意識するという実際だ。
「表現塾」では、役者達が苦戦していた。
その世界では通用しても、このワークでは通用しないからだ。
しかし、その世界で通用して、というのもおかしなことだ。
役者を見るのは、あるいは、演劇をみるのは一般の人だだから。
一般の人というのは、多種多様な価値観を持つ。
そこに通用しなければ、話にならない筈だ。
だが実際というと、その世界の中だけのお約束のようなものなのだ。
明日は楽日。
明日は、このワークで一番人数が少ない。
だから、「身体塾」でやり残していること、「関係塾」でやり残していることもやることにした。