極意の言葉は

人は日常を時間と共に体験している。
もちろん、全人類がである。
そこに例外は無い。
ただ、その自分自身の日常を、どんな「言葉」で切り取るのか、あるいは、振り返るのか、というところで、それぞれがその体験を個別のもの、個人独自のものにするのだ。
例えば、悲観的なものにするのか、楽観的なものにするのか、というようなことになるのだ。
全ての問題は、この一点に集約される。
その意味で、自分は一つの出来事や状況を、どの言葉で括っているのか、あるいは、どんな言葉でその出来事や状況を見つめたのか、思ったのかが逆説的に、自分自身の人生だという事だ。
その意味で、人は他人の言葉を共有することは出来ないのだ。
それこそ、近似値は共有できることもある。
しかし、共有できるのは、一般論的な言葉だけだ。
その意味で、「武禅」のように、組稽古をするのは本当に難しいのだ。
全く異なった体験の積み重ねで、人生を歩いて来ている人同士が、一つの問題に取り組み、相互に解決していくという形式だからだ。
どの言葉が相手にとって適切か、そこを探り出しながらの会話をしなければならないからだ。
しかし、これは実際の日常では、一番大切な事なのだが、人はそこを無頓着に扱っている。
だから、日常はそれぞれの個人が、個人を押し付け合いしているに過ぎないのだ。
そんなことに気付いていく人、全く気付かなくて、方法論を探す人、それもなくて、単に自分の薄っぺらな感想を並べる人。
本当に人それぞれだ。
「武禅」ももうすぐ100回を数える。
やりだした当初は、何回やろうなどとは考えていなかったし、そういった時間軸は頭になかった。
だからこそ、飽き性の私が100回近くまでやってこれたのだ。
しかし、この「武禅」を開講して本当に良かったと思っている。
私の成長の為のものでもあったからだ。
人というもの、個人ということ、関係という事、それらを全く別の角度、色々な角度から考える視点を、受講者を見る事で与えて貰ったからだ。
受講者は、それぞれに何かを学んでくれているだろうが、一番学んでいるのは私だと自負できる。
今回の「武禅」で、一番古参の女性が、「途中で何回逃げ出したか分からない」と笑いながら皆に話してくれていた。
もちろん、どうして逃げ出したのかは説明しない。
だから、それが分からない人は大半だと思う。
しかし、その女性のように自分の人生を笑いに変えることが出来る力が、集団で生きる人にとっては大事な能力なのだ。
意味や価値を並べるよりも、笑い一つが皆に響く唯一の道具だからだ。
その女性が笑うと、皆もつられて笑ってしまう。
もちろん、当人は「私はアホやから」とあっけらかんとしている。
そう括れる言葉こそ、極意だ。
人、それぞれ自由だ。
当然なにが豊かなのか、何が幸せなのかの基準もバラバラだ。
そんな中で、意味なく共に笑い会えることが、どれほど豊かな時間なのかと気付いて欲しいものだ。
それこそが「武禅」に集う人達の特権だからだ。
出版記念トークライブショー11月12日(土)午後2時~4時
http://2016hino.jimdo.com/
東京ワークショップ 11月21日‐24日

http://hinobudo.wixsite.com/workshop

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