さようならグルノーブル
フランスやオランダ等へ来て何時も思う事。
ここグルノーブルに来て、そんな事が一段と明確化してきた。
例えば、このグルノーブルで育ったとする。
アルプスを挟んでイタリアがあり、スイスが有る。
それらの隣国を見据えて、城壁や出城が残っている。
それが、グルノーブルに住む人の「当たり前」である。
人々の中には、他人が想像しえない当たり前があるということでもある。
もちろん、当たり前の善し悪しの話ではない。
図り得ない、想像し得ないということだ。
そんな違いが個々にある中で、日本の文化である武道を学ぶというのは、ある意味では並大抵の事ではない。
もちろん、誰でも野球をしたりサッカーをしたりと、というところから言えば、別段たいそうな事でもないのだが。
私は、違いという視点から、共通というところへ進むにはどうすれば良いのかを考えるから、並大抵の事ではないとなるだけだ。
昨日のグルノーブルワークショップでは、少しダメ出しを多くした。
徹底的に突っ込む手前までいった。
余りにもやっていることを、理解しなさすぎだったからだ。
結果、一人の男性は、最後には自分の手を叩くまでになった。
最後にはといっても数分だ。
その男性が手を叩いた時、「それが武道の稽古なのですよ」と告げると、真顔になり深々と頭を下げてくれた。
この男性とのやり取りで、言葉は殆どいらなかった。
というよりも、私がフランス語を話せるわけでもないし、相手は英語も分からないからだ。
何かが通じた、それだけの事だ。
人は通じるし、関係できるのだ。
もちろん真意だけだ。
改めて、言葉を知らなくて良かったとも思った。
ここでレオさんの通訳が入ると、きっと納得になり真意には辿り着いていないし、決して辿り着くことはなかっただろうと思う。
日本でも、説明という意味では、大方のワークショップよりも言葉は少ない。
その事が、学ぶ人の頭を回転させるからだ。
しかし、納得できなくて苛立つ人もいるのは確かだ。
それは、それで仕方が無い。
ひな鳥が親鳥が餌を運んで来ると思い込んでいるのと同じだからだ。
鳥の場合は、ある時期だけで、巣立つ時には自分で餌をとるということを、親から学ぶ。
そして巣立っていく。
私のワークショップは、ある意味で巣立って欲しいからやっているようなものでもある。
自分の力で立つように。
そうなると、他人が見えてくるのだ。
関係というのは、そこが始まりである。
大阪ワークショップは9月22,23,24,25日です。
https://www.hino-budo.com/workshop-schedule1.html