一言言葉を加えると、自分は深くなる

ややこしい事を書いているが、結局のところ、「であるならば」とか「ということは」というような、一歩踏み込める言葉を使うか使わないかなのだ。
熊野の道場を建設している最中に、大阪にある空手道場での指導を頼まれた事があった。
生徒が大学生だったので、その時さんざんやった稽古が、この「ということは」だったのを思い出した。
どうしてこうなるのか、○○だからです、であれば、という具合だ。
そこに相当時間をかけた。
その言葉を使わなければ、物事の構造に入っていくということが出来ないからだ。
大方が、どうしてこうなるのか、◯◯だからです、で終わってしまう。
だから、その構造に入れない。
当然、やっていることの繋がりが出来ないし、好奇心も生まれないことになるのだ。
それこそ国語のプリントをやる要領で、その言葉を使う稽古が必要なのだ。
どうして突きを払ってはいけないのか。突きが変化するかもしれないからです。
ということは、払わずにその手が攻撃になってないといけない。
というような言葉を遊べば直ぐに構造ということが理解できるのだ。
ということはの後、どうしての後をどんどん変えて行けば練習になる。
ただ、その事が本質的でないといけない、つまり、突きが変化するからの延長でなければいけない。
だから、ということは、危ないから、では変化すると被るから駄目だ。
そこを根気よく、考えながら何度も何度も練習すれば、直ぐに出来るようになり、身体の動きも変わってくるのだ。

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