自分のやっていることの中に宝がある
日本の教育の間違いの代表的なものは、「武禅」のレポートにも現れている。
「最初との違いはわかりましたが、まだまだ弱いのも分かりました」とある。
だから、前に進めないのだ。
「違いは分かりましたが」と違いがあったことは認めている。
にも関わらず、直ぐに「が」と否定系の言葉を挟み込むことだ。
つまり、違いがあった→たった2泊3日で少し良くなっている。
それは間違いなく自分が努力したという事であり、そこにある種の結果が見られたのだ。
どうして、まずその自分のしたことに対して喜ばないのか。
自分の行った工夫や努力が「違った」という見え方にしたのだ。
価値あることなのだ。
にも関わらずすぐに「が」となる。
もちろん、「まだまだ」というのも分かる。
しかし、その「まだまだ」は2泊3日の結果、見えた「まだまだ」であって、入り口では雲をつかむような感じだった筈だ。
そういった時間の経過や、自分の工夫に対して余りにも認識が足りなさ過ぎる。
そこはテスト結果主義の弊害だ。
また、自分が使う言葉こそが、自分の考えを作り出す基盤になるものだということの認識も無さ過ぎる。
ここらを強化しなければ、迷走するばかりだ。
単純に言えば、国語をみっちりやっていないということだろう。
もちろん、私もやってはいないが、自分の思っていることを言葉にした時に「これは違う」という違和感を感じ、そこから自分の使う言葉に注意を払うようになっていったのだ。