顔が締まって見えるのは

身体の輪郭が明確なのかボケているのか、そんな話を撮影に協力してくれている二人のダンサーにした。
それは胸骨操作に代表される、私の言うストレッチの意味のことだ。
身体がボケて見えるというのは、もちろん、明確な身体と比較しなければ見えては来ない。
舞台にいるダンサー全員がボケていると、そういった事は全く見えない。
ただ、ダンスとしてシャープではないとか、スピード感躍動感が無い、という見え方はする。
これはよくよく考えればおかしな話なのだ。
ダンスを踊るとした時、自分がダンスを好きで一人で、あるいは仲間で楽しむ分には、身体が明確に見えたり、シャープな動きや躍動感など問題ではない。
自分や仲間が楽しめたらそれで良いことだ。
しかし、職業で、ということになると、その事で給料をもらえる、つまり、国や客からお金をもらうのだから、それに見合う表現が大事だと誰でも分かる筈だ。
腐った大根を、新鮮な大根と同じ値段で買ったとしたら、当然、その店にクレームをつけるだろう。
それと同じだ。
にも拘らず、その事の重要性に全く触れないのはどうしてだ?
答えは単純だ。
そうそう明確な身体が舞台には無いからだ。
つまり、人々は目にした事が皆無なのだ。
あったとしたら、きっとその人のことを天才だと片づけていると推察できる。
何よりも、それが一番楽だからだ。
その努力をしなくても良いからだ。
身体が明確に見えるというのは、身体を使っているからであって、頭を使っているのではないからだ。
逆に身体がボケて見えるのは、身体は動いているだけで、頭、つまり、思いや自分の世界の中に自分がいるからだ。
身体が動いているだけ、というのは、身体は無意識的に動くからという意味だ。
同じように、日常で顔がボケて見える人は、頭を使っていないということだ。
色々な葛藤を体験していないということと、感情が育っていないからだ。
それは、安穏とした人生を送っているから、ボケた顔ボケた身体に「見える」のだ。
よく「親は子供の壁になれ」と言う。
それは、子供に逆境に立ち向かう力や、自分の壁を乗り越える力を付けさせるためのものだ。
もちろん、社会での挫折にめげないようにする為の行為だ。
その親の壁は、親に反抗する力を付けさせ独立心を養わせるものだ。
これらが子供の精神や気持ちを強くさせ、引き締まった顔にするのだ。
顔が締まって見える人は、色々な葛藤を体験し悩み苦しみ、それを自力で乗り越えて来ているからだ。
と同じように、身体を考えて見れば分かる事だ。
どれほど、動きの練習をしようが、それは身体を使っているのではなく、身体が動いているだけなのだ。
もしも、身体を使っているというならば、自分の身体の体表で良いから、任意の部位に焦点を当てる事が出来るだろうか。
そこだけを動かしたり、逆に止めたり出来るだろうか。
そんなことを試して見るとよい。ら送信

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