自分の身体は幻想なのか

パリ、リヨンでレオさんが迎えてくれ、そのままオルリー空港へ向かった。
オルリー空港は、40年前初めてパリに来た時に到着した空港だ。
もちろん、どんな空港だったのかは、一切覚えていない。
ただ、空港を出てからどのバスに乗れば、パリに行くのか分からないので、大阪弁英語で聞きまくったのは覚えている。
確か、動物園の近くにバスは到着したと思う。
しばらく空港で搭乗待ちをし、1時間少々でBrestに着いた。
タンギーが迎えに来てくれていて、そのままスタジオへ向かった。
実は、このBrestでのワークショップは、午後からはダンサー向けのものだった。
全くそれを聞いていなかったので「ええ~~~」だ。
もちろん、だからどうだという事ではないが、「ええ~~~」だ。
スタジオにはダンサーらしき人達、また、ダンス好きの年配の方達。
それに混じって武道系だろうという人達がいた。
もちろん、ダンスのワークショップなので、武道系は放っておく。
とは言っても、身体を動かす、そのメカニズムとしては、筋肉や腱の伸び縮みが身体運動だから、別段変わりは無い。
私よりも、少々若い年配の婦人が楽しそうに取り組んでくれていたので、少しいじって見た。
やはり、おばちゃんはノリが良い。
ああだ、こうだという中で、若い人達よりも早く何でも出来ていった。
この辺りは、日本人も同じだ。
若い人達は、ウジウジと自分たちだけ話しているだけだが、おばちゃんたちは色々試しながら進めている。
一人のおばちゃんは中国の方で太極拳の先生だという。
意識という話や気ということで質問があったが、確かなことは何も分からないので、言葉に振り回されないように、とアドバイスをした。
どうして、言葉を鵜呑みにするのかが分からないが、そういった質問は、ダンス系でも武道系でも多い。
幻想は幻想であって、実現の可能性はゼロだ。
色々と逸話的な話も持ち出されるが、「それを実際に見たことがありますか」と聞くと「無い」という。
言葉と実際の区別をつけようとはしない、その言葉を検証しないところが問題なのだ。
ねじれから肘を緩めて、ねじれを辿るというダンス系では定番のワークをした。
「肘を緩めて」というと、全員それに取り組むが、基本的に肘の緩め方を知っているのか?と質問したくなる。
見ていると、案の定誰一人として、肘を緩める事が出来ない。
もちろん、これらは身体能力の相当高い、フォーサイスカンパニーのダンサー達もてこずっていた。
つまり、基本的に「身体にかかわる言葉」を知ってはいるが、それを自分の身体で正確に探求したことが無いということだ。
もちろん、それでも武道やダンスは出来る。
しかし、自分の限界は直ぐそこにある。
何故なら、自分の身体に対する認識が幻想だからだ。
そして、その幻想が、自分自身の「動き」の基本としてあるからだ。
「出来ないことは、出来るように取り組まなければ出来ない」当たり前の事だが、こと自分の身体に関しては、ほとんどの人がそれをしない。先ほどの「肘を緩める」でも、「緩める」という体感覚がなければ出来ない。
だから、まずはそれに取り組まなければ駄目だ。
指示されたこと、あるいは、やるべきことがあり、それにどこから挑戦するのか、そこを自分として分からなければ、どんなことでも即座に限界がやってくるのだ。
夜は武道のワークだ。
胸骨の上下から始めた。
やはり、古い人は試行錯誤の中、直ぐにやれていく。
他の人は「自分なりに」やっている。
だから、どこから取り組むのか、等々という考え方を持っていない事が良く分かる。
「ノー」思わず叫んだ。
余りにも、自分勝手に汗をかき、相手を投げ飛ばしているおっさんがいたからだ。
ほんと、おっさんたちはどこに行っても、どうして頭が固いのか。
注意をしても何を注意をされているのか、という事が理解できないようだ。
もちろん、それは武道に限らない。
ダンスでもある。
自分は何をしようとしているのか、そして何がやれているのか、何をしているのか。
そういった客観性がまるで無い。
だから、自分が何をしているのか、さえ分からないのだ。
肘を緩める、「あなたの身体ですよ、でもあなたではないですよね、一体この身体は誰なのですか」笑いながら話すが笑い事ではないと感じるのだろうか?
今日は、朝5時に目が覚めた。
Brestの港の近くのホテルだ。
外に出ると磯の香りが身体を包むのが、何ともいえなく心地よい。
日が昇ったら、港を散策しよう。

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