子供は直観的に「こいつはあかん」と閃く

昨日の高校空手部の教師は、教師というよりも人間として魅力がある。
授業もこだわりがあり、生徒たちに大受けだという。
それの原因は、この教師自身の高校時代の記憶がそうさせているという。
面白くもない授業、ただただ指導要綱にそった授業など、生徒たちが聞くはずもないし、全く無駄な時間を生徒に強要しているようなものだ。
ただテストの為の授業だからだ。
この教師は、そういった思い出を振り返り、自分はどんな授業をするか、と相当考えたという。
少々やんちゃだったから、余計に「面白い」と「面白くない」がハッキリしている。
だから、「どんな授業を」を考えようと思えるのだ。
良い子の高校生活を送り、大学でも良い子を貫いて教職試験に合格し、教師になっている人は、思春期の頃の味付けが無い。
そんな人に、多感な連中の相手が出来る筈もないだろう。
線路の上をひたすら走る列車に乗っているような生徒達には通用するかもしれないが、一寸考える力のある生徒達には通用しない。
教師として通用しないのではなく、人間の幅として通用するはずもないことは、普通に考えて分かることだ。
私の中学時代でも、先生を見極めていたから、この先生の時は騒いでも大丈夫、この先生は駄目。
という具合に知恵を働かせていた。
もちろん、小学生の頃でも同じだ。
教師だからといって、つまり、肩書があるからといっても通用しない人には通用しないのだ。
それがたとえ子供であっても。
しかし、これが大人になると、この見極め能力が退化する。
そこには損得関係があるからだ。
だから、肩書が通用するようになるし、むしろ肩書が重要になってくるのだ。
「顔を見たら分かるやろ」と何時も言うが、見極め能力が退化している人には、残念ながら顔を見ても分からないようだ。
むろん、大方は軽いノリでの軽い付き合いだからそれで良いのかもしれないが。

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