ジュネーブではContemporaryDance

昨日のフライトだが、リサは「残念」あるいは「どうしようもないね」等と、そこに止まっていた。
私は、一人になれる時間が出来たと喜んでいた。
そこの違いは大きい。
リサにネガティブ・シンキングやポジティブ・シンキングではないが、直ぐに別の事を、出来ること、次の事を考えろ、と言った。
別のことだ。
リサは「どうして、直ぐに切り替えられるのか」ときく。
「武道の教えに、居着くは死、居着かざるは生があり、それを徹底的に鍛錬しているからだ」と答え、自然に出来ることではないことを話した。
断っておくが、私の英語は小学生低学年クラスだ。
単語の量も文法も動詞も形容詞も分からない。
でも、確実に会話は成立している。
「伝えたい・理解したい」というお互いの意思が、それら全てを補っているのだ。
その後、ラッキーが重なった。
コーヒーの一件、ケンゾー君が今日はフリーということで、空港まで送ってくれる事になった件、見知らぬおっちゃんと仏陀について話せた件、ロフト付きのホテルに泊まれた件、少し寒いがそこにバスタブがあった件。
予期せぬ新しい体験が待っていた。
これは「出来ない」→「出来るように」と同じだ。
出来なければ、全く別の角度から挑戦するのが良い。
これもそれで出来るか出来ないかは分からないが、少なくとも気分を変える事が出来る。
その結果、また違った取り組みに気付くかも知れないからだ。
それはまた、自分自身の発想の豊かさを培う為の稽古にもなる。
つまり、自分の可能性を培っていくということにもなるのだ。
一つの出来事が、一つの結果しか出て来ないのではなく、幾通りにも結果は発展するということだ。
そういうことを考えだすと、「稽古」というものの大切さが身に沁みる。
稽古をすることで無限の発想を培える、
そうならなければ損だ。
そんなことは今回のBalletの稽古でも気付いた。
Balletが硬い身体を作るのではなく、そこにある言葉や、先生方の言葉が硬さを作る。
だからその取り組み方や、理想が硬いのだ。
そこをイメージという言葉でぼやかしてしまっていることも気付いた。
幼児や子供たちの身体はエネルギーに溢れているのが見える。
また、その身体の中には無限の未来が詰まっているのが見える。
その身体はどこへいってしまうのか。
言葉、意識、いや習い覚えた屁理屈が、身体を貧しく貧しくさせていくのだ。
そういった事も、ワークショップに来てくれた人達から改めて気付かせて貰った。
今日は、ジュネーブに行けるだろう。
マーツが迎えに来てくれる。
どんな発見や気付き、あるいは閃きが起こるのか。
それが楽しみだ。
最終日にはDancerの為のワークショップもリクエストされている。
こちらは、Balletではなく、Contemporary Danceだ。
この場合は、身体の使い方そのものをモチーフとして使える。
その事に気付いてくれたら大成功だ。

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