自分が暴走し、自分の邪魔をする
今回の「武禅」では、2名がひと声で自分の狙う人の手を上げさせている。
後半のセクションで10名ほどが、ピラミッド状で後ろ向きに座る。
そこに任意の人に狙いを定めて「オイ」と呼びかけ、任意の人が一人だけ手を挙げるまで、延々と続くものだ。
最近では余りないが、以前は一人で40分孤独と戦った人もいた。
10分15分の孤軍奮闘はざらだ。
そのセクションで、たまにひと声で手が挙がる事がある。
今回はそれが二人もいた。
そこに共通しているのは、「この人」と直感が働き、「この人」しか目に入らない状態になり「オイ」と呼んだことだ。
だから声を掛けた当人が驚いている。
呼ばれた人も「私だ」と気付いたのであって、「私かな」と判断したのではないことだ。
重要なのは「意識を働かせない事が」という成功体験を持ったことである。
このことをどれだけ日常に持ち帰る事が出来るか。
でないと、ただの偶然だし時間が過ぎ去った思い出しか残らない。
こういった事は日常でも多々ある。
「意識していないのに出来た」出来ていた、という状態だ。
というような、相当凄い体験をしていても、その事を後日のヒントとせずに思い出にしてしまう人が多いのだ。
「日常で、あるいは、一寸した事に目を向け、それに感動し、その後それを分析しろ」
教室やワークショップ、もちろん「武禅」でも口が酸っぱくなるくらい話す。
人は、それこそダイナミックな出来事、体験にしか目が向かない。
それこそ、自分とはかけ離れたことだ。
もちろん、それが間違っているのではない。
それも大事だ。
しかし、要は人生の思い出を作りたいだけなのか、人生の中で自分を成長させたいのかの選択だ。
人は意識的なこと、単純には手応えを求める。
だから、意識が暴走・迷走し、堂々巡りでヒートしてしまうのだ。
多くの人の手応えとは、実際ではなく意識の満足のことだ。
だから、実際にうまくいっているにも関わらず、出来ていないと思うこともあるのだ。
あるワークショップで「分からない」を連発する人がいた。
「肩を回すだけですよ」というと、「分からない」という。
何が?と問うと「肩を回すというのが分からない」という。
「見てくださいね」と私が肩を回す。
それを見ていて真似をしてくれた。
不自然だが確かに肩が回っていた。
「それでいいのですよ」というと「分からない」になる。
その人の使っている言葉「分からない」が、こちらには分からないから、何をどう解決していいのか「分からない」。
それも意識の暴走で、意識が現実とは遊離してしまっているのだ。
実際には出来ているのに、意識は理解していない、納得していないというのは、本当に自分の邪魔をするのだ。
「武禅」レポートアップしました。
https://www.hino-budo.com/buzen5.html