言葉は関係が無い

3日間のワークショップを終え、今日午後福岡から帰宅した。
早速、夕方締め切りの原稿に取り掛かり、事なきを得た。
1年ぶりに会う顔は、みんな笑顔が増えていた。
何かしら気付くことが有り、1年間それに取り組んだからだろう。
数年前、一寸突っ込んだら泣いてしまった女性は、決して諦めないめげない女性に成長していた。
そんな人達の顔を見ていると、嬉しくなりワークショップを続けて良かったとある種の幸福感が訪れる。
中には航空自衛隊の中堅の人もおり、かなり硬派の踏み込んだ話も出来るのが楽しい。
そうかと思うと、年配の女性に「こんなことを言われてショックでした」と涙ながらの人生相談になることもある。
「人の言うことなど、自分と関係ないでしょう」と話しながら、愚息が小学生の頃いじめにあっていた事を思い出した。
「関係ないよ言葉など。お前は人から馬鹿だと言われたら馬鹿になるのか、なる筈ないやろ、死ねと言われたら死ぬのか、死ぬ筈ないやろ」その言葉で愚息は吹っ切れたようだった。
何を言われようが自分とは関係がないのだ。
その言葉と関係するのかしないのかの選択権を持っているのだから。
しかし、現代の世の中は、ネットの書き込みを苦にして自殺をする若者がいる。
そんなニュースを見る度に、どうして親はこういった「関係性」の本質を教えて上げていなかったのかと思う。
友達も要らなければ仲間もいらない。
仲間外れにされたら清々する、という考え方が必要なのだ。
その為には、皆とは関係のないことに興味を持ったり、遊びを探したりすればよいのだ。
しかし、残念なことに、皆と一緒が良い、という教育の中で育つから、そういった個性を持たないばかりが、それをぶっ壊してしまうのだ。
私がそういった話をすると「どうして、そんなに強いのですか」と言われる。
いや強い弱いの話ではなく、自分は何をどうして生きるのかを決め、そうしているだけだ。
それに興味を持ってくれる人がもしおれば、友達になれば良いし仲間になれば良い。
否定する人は放っておけば良いだけである。
そんなことは小学1年生の時代から知ってなければ駄目だ。
私は、人生を生きて一人で良いから、理解者が現れれば良いと思っている。
もちろん、何を理解して欲しいのかは分からないが。

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