混乱の元

「武禅」には、大学で教鞭をとるこころある臨床心理士の方が参加している。
その人と話をするのが面白い。
かなり明確な言葉で答えてくれるからだ。
しかし、その明確さが全てを混乱させる元だとは気付かない。
もちろん、その方は気付いているから「武禅」に参加しているのだが。
混乱させている。
というのは、例えば、どこにでもある言葉でネガティブとポジティブがある。
それは常に同時進行であるものだし、その事自体が不明確なものだ。
季節の移り変わり目を「今日から春です」と言っているようなもので、その人の目にはそう見えただけで(知識があるから)、本当のところの「今日」は定かではない。
しかし、そういった区分けをする。
ここが西洋的論理だ。
もちろん、区分けすることが間違っているのではない、そうすることが問題を明確にするからだ。
しかし、それは問題を明確にするということにおいて正しいだけであって、区分けされたものが本質なのではない。
本質は明確ではない、ということを知るために区分けが正しいのだ。
もう一つ肝心な事がある。
どれほど分析しようが、それは分析の為の分析に過ぎないということだ。
決してそれは、こころそのものではないし、こころにとどくものではない。
しかし、頭には届く。
意味を理解する、という回路が働くからで、その回路がこころと結びついているかのごとく錯覚しているからだ。
何よりも、そう語る自分が他人の言葉を頭で受け取ることしか出来ない。
つまり、分析することしか出来ない。
こころを聞けないのだ。
その事に気付いた大学の先生は素晴らしい感性だ。
偶然、私と同い年で、同じ地域で育っていた事も面白い。

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