からだは私を超えている
「からだは私を超えている」と何時も思う。
それは、現に私は生きている、という事が証明だ。
私が管理していないのに、心臓は血液を全身に送り出し、胃は食べたものを消化してくれ、それぞれ全ての臓器は、「生きる」という事に対して全力で働いてくれている。
異物が侵入すれば免疫機能が働き、阻止してくれる。
そのことを私は全く知らない。
しかし、人は運動だけを取り出したり、動きだけを取り出すが、身体の働きがあっての運動であり、ダンスや芝居他の動き、もちろん、日常の動きもそうだ。
もちろん、こう書いている事自体がおかしい事だ。
というのは、「動き」というもの、身体の運動というものがそこに有るのではないし、それだけを論じることなど出来るはずもないからだ。
当たり前のことだが、動きであろうが運動であろうが、そこには自分自身の意志や欲求、さらには、生理的な何かが有るから、それが運動になり動きになるからである。
昔日の剣の達人伊藤一刀斎は「身体の機能を十分に働かせることが剣の妙である」と、約500年前に看破していた。
その身体の機能というのは、生理的働き、無意識的働きのことだ。
決して筋力に関わる運動の事を指しているのではない。
身体をうまく動かすということではないのだ。
そんなことを探求していると、身体をより自由に、つまり、頭の持つしがらみ、つまり、先入観や固定観念から開放することこそ、身体をより自由に活躍させることだと気付いたのだ。
そして、それが健康や、故障を無くすこと、身体が合理的に動いてくれることだと気付いた。
京都のワークショップは、時間が短いがその辺りをみっちりとやっていきたいと思っている。