道具は身体を作ってくれる
今の時期、教室では棒の稽古に励んでいる。
道具を使うというのは、その道具が使い方を限定するから、相当面白いのだ。
道具を使うことで、身体の精密さが増す。
別の言い方をすると、身体の持つ感覚を開発してくれる、あるいは、引き出してくれるのだ。
体術が進むと道具を使ってみる。
道具を使うと、体術の大事さが分かってくるからだ。
そうすると、体術の取り組み方が変わる。
そういったことの繰り返しが、自分自身を刺激し成長するのだ。
武道の場合、道具が使えるというのは、道具から力を出せるという1語に尽きる。
もちろん、その中には斬れるも入る。
道具を映画の殺陣のように振り回す事が出来ても、力を出せる事は別だ。
道具は昔からあり、それを武器として使っていた。使えていたのだ。
もちろん、そこには上手下手もあるし、ハッタリのものもあっただろう。
それが間違っているのでも悪いのでもない。
どうであれ、その事が相手に対して使えたら良いだけだ。
そこのところは現代では、残念ながら稽古出来ないし、日常で実際に道具を使う事は無い。
だから、稽古の的は相手に接する部位から力を出す、ということに限定される。
棒であれば、突く、叩く、回す、跳ね返すというような役目がある。
その何れでも、相手と接している、接する部位から力が発生しなければならない。
そういった事を考えると、そこにある共通項を見つけ出したり、例外的なものを発見する事が重要になる。
道具は身体ではない。
その分、力を道具から出すという事が、腕力では不可能だと認識しやすい。
六尺の棒であれば、長さがあるから力み過ぎたり、腕力一辺倒で押すと棒が折れることも有る。
だから、気づきやすいのだ。
もちろん、気づく人に取ってはなのだが。