ドラマーのアキラに戻っていた
お葬式やお通夜というのは、もちろん故人を偲ぶ為のものである。
しかし、故人の最後の贈り物でもある。
こういう時にしか会えない人と会える、あるいは、思いもかけない人と会う、そんな場でもある。
昨年末、田中さんのお通夜では、正しく田中さんの贈り物だった。
「日野ちゃんはジャズドラマーやったんやで」
それを確認させて貰った。
私がボーヤ時代、よく聴きに行った先輩ドラマーの金子さんや、その時代、ジャズを熱く語り合ったドラマー大森さん。
もちろん、東原力哉やその年代のドラマー達。
思えば同業者、つまり、ドラマー同士が顔を合わせる事はめったとない。
何かのイベントやフェスティバルくらいだ。
その場にいた皆がその事に気付き、田中さんの贈り物に感謝の乾杯をした。
その昔、御薬袋君が金子さんに、ドラムを習う予定だったそうだ。
時間が遅れたため電話を入れると、金子さんに怒鳴られ「怖〜」と思い行かなかった、と金子さんに告白。
金子さんが「若かったので」と一礼。
そんな昔話に場が盛り上がっていた。
力哉が突然「日野さんセント・ジェームスへ行きますわ、田中さんが来ているから」
「ほうか、ほんなら行くわ」と酔い覚ましも兼ねて桜川から、道頓堀まで歩いた。
店では年末のジャムセッションが行われている最中だった。
丁度、力哉がセッティングをしていた。
ベースは石田くん。
ピアノは???
力哉のダイナマイトドラムから田中さんのピアノが聴こえてくるようだった。
「日野さん叩いてくださいよ」呼び出しにかかった。
「10日にやるから」と私。
ドラムも何も、完全に酔っ払っているので、手も足もどうにかなる筈もないからだ。
若いドラマーが力哉に変わって叩きジャムが続く。
「あかんですよね、あれじゃ」
「あかんな弱すぎるわ」と力哉とドラム批評。
その若いドラマーが女性ドラマーにバトンタッチして、私達の席に来た。
「演奏の前にもっと思い切りいけ、と言うたんですわ」と力哉。
その若いドラマーの憧れであり、目標は力哉だという。
「おおお、それはええ、ええこっちゃ、ドラムはこいつしかいてへんからな」
何でも、そのドラマーの両親が力哉のファンで、ほんとに小さい頃から力哉の音を聞いていたという。
「それやったら、力哉のええところをもっとパクらんかい」
「日野さん、実はyoutubeで日野さんのドラムも聴いています」
「ほんまかいな、それは嬉しいな」
と話していると力哉がマイクを取り「今日は特別な夜なので、特別なゲストに叩いて貰います、日野晃」とぶちあげた。
そう呼ばれたら仕方がない。
「若い頃、鼻をへし折られたドラマーです」
と持ち上げる。
セットに座ると、なんじゃコレというセッティング。
「まあ、ええか……行ったれ!田中さんお休み!ありがとうございました」
短いソロを叩かせて貰った。
https://www.youtube.com/watch?v=_NPiBUym-oM&list=UU7g40cMJud_NEShRlwNicyQ
「やっぱりアキラさんやわ、ほとばしっていました」と力哉。
その後も、しばらくジャムは続き深夜12時頃お開きになった。
その足で、またお通夜の会場へ戻った。
10人くらいが会場で田中さんとの思い出話に浸っていた。
私の斜め前にいた人が、じっと顔を見ているのに気付いた。
その人が私の隣に座る御薬袋君に「隣の人紹介してよ」と言ったのが聞こえたので「日野です」と言いかけると「日野くんや、覚えているわ、俺や大森や」「あああ〜〜、大森、思い出した、大森くん」
大森くんとは梅田のキャバレーで一緒だった。
当時私は、東京でピアノの菊池雅章のオーディションがあり、それを受けに東京へ行っていた。
その事は大阪のドラマー達に噂として流れていたらしい。
「日野くんの事は、当時から東京でも有名やったで」らしかった。
「ほんま?」
その大森くんは、その直後に東京へ出て行き、私も一緒に演奏していた故吉澤元治さんや故阿部薫ともやっていたというから、やはり世界は狭い。
そうこうする内に朝7時を回っていた。
最後まで残っていた神田くんと御薬袋君、力哉と連れ立って外へ。
牛丼でも食べて昼の葬儀まで仮眠を取ろう、ということで別れた。
年の瀬に思わぬ時間を貰った。
私のジャズの思い出でもあった。
それこそ故人の贈り物以外の何であろうか。
改めて、人というもの、生きているということ、そして死ということを教えて貰った貴重な時間だった。