地雷が埋められている草むらをあるくように

先日、ドラムを初めて習った。
他人から他人の考え方を「身体技術」を通して学ぶ。
これは相当おもしろい事だ。
こと身体技術に関しては、出来ているように、あるいは似ているように見える、という厄介な状態がある。
もちろん、言葉として習っても、理解しているような反応はあるので、同じといえば同じだ。
そういった事を含めて、習っている時は相当慎重になる。
何時も言うように、分からないことは分からない。
だからこそ、慎重にならざるを得ない。
分からない中にも、分かるような言葉と出くわす事もある。
それに出くわした時、それを明確に頭の片隅に残す。
そして、また分かるような言葉に出会えないかを慎重に探る。
もちろん、相手の話の中でだ。
そして共通項が無いかを探る。
次に探すのは、その共通項になるような言葉だ。
そういった時、一切こちらの意見も、聞き返しも、置き換えもしない。
その事で、相手の流れや話そうとする道筋を変えてしまうからだ。
とにかく、ひたすら慎重に探るのだ。
もちろん、私には体験が無いが、地雷が埋められている草むらの中を歩くくらい慎重にだ。
その集中力が、自分自身の忘れていた過去の体験や印象を浮かび上がらせてくれる。
その浮かび上がったものは、分からない事とリンクしている筈だから、何でリンクしているのかを探すのだ。
胴体力の伊藤昇先生がまだご存命の頃、東京教室の度に伊藤先生の教室に遊びに行かせて貰っていた。
伊藤先生のアプローチの仕方が興味深かったからだ。
教室に行くと、何時もベテランの人が相手をしてくれた。
その西◯さんは、相当的確なアドバイスをくれたのを覚えている。
つまり、その西◯さんは、そのエクササイズをするにあたって、そして実現させる為には、どこにどう注意を向ければ良いのかを、分かっていたということだ。
そのアドバイスに驚いたのを思い出す。
つまり、その人は相当自己努力をしたということと、やるべきことから逸脱しなかった、ということに驚いたのだ。
ドラムを習った青年も同様だ。
身体技術は、習っても出来ない。
余程の天才か、身体能力が相当秀でている人でなければ無理だ。
もちろん、子供でも出来るような上っ面の事は別だ。
子供でも出来るのだから。
また子供だから出来るからだ。
ドラムの青年にしろ、伊藤先生のところの女性にしろ、その人が獲得した事は、相当高級な身体技術だ。
つまり、そこには自分の身体に対する真摯な視点、そして検証していく時間、発想豊かな検証の種類。
それらが無ければ、獲得は出来ない。
そういった個人の持つ時間に対して、「ありがとう」と言う以外の言葉は見当たらない。
つまり、そういった努力をすれば、高級な身体技術も身につく、ということを、身を持って示してくれている、ということだからだ。
しかし、返す返す残念なのは、伊藤先生と稽古後、お食事に誘ってもらい語りあった、二人で起こそうとしていた今後の展開が消えてしまったことだ。

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