私は変わりたいです、武禅に参加させてください
●昨年に続き、二度目になる大阪での講演会です。
「人生を生き抜く智慧・達人の真髄はコロンブスの卵だ」
笑いますよ!
昨年は、直ぐに定員になってしまいました。お早めに申し込んで下さい。
10月26日
http://ilt.jp/extra01/entry.html
●おまたせしました。東京教室が10月5日より再開します。
https://www.hino-budo.com/tokyo.html
●秋の「武禅」11月1,2,3日受付開始しました。
https://www.hino-budo.com/buzen4.html
11月の「武禅」に参加したいと、こんなメールを貰った。
「福岡WSに4回参加しています。
2年前、先生から「お前は客観的すぎる」と指摘されたことがありました。
私にはその意味がわかりませんでした。
今年のWSで、2年前と同じシュチュエーション、先生と正面向かい合った時に、ぐわわっと体がまず反応しました。それから「あ!」と思いました。
私は人を受け取らない、とまず思いました
それから、人を見ていないと気づきました。
私の見るとは観察でした。
私は人を観察していました。その人がどんな人か、観察、さぐる、というのが私の見る、でした。
でもそれは見るではなくジャッジでした。
それに気づきました。
先生の「お前は客観的すぎる」というのはこれなのだ、と気づきました。
しかし、気づく=すぐそれが出来る ではないとわかりました。
人と向き合うのが怖いです。
なぜ怖いかと考えたとき、それは傷つきたくないからだ、と思いました。
自意識過剰の怖がりです。
頭ばかりで難しく考えて、意味付けしたくなります。
したいことやりたいことをただ行なう、を難しくしてしまいます。
でも、人と関わりたいし、向き合いたい人がいます。私は見たいです。
頭から離れて、身を乗り出して進む。
私は変わりたいです。
武禅に参加させてください」
多分、福岡でのワークショップに参加した後は、悶々としていたのだろうと思う。
私の話す事が「分からない」からだ。
どんなことでも同じだが、見える人には見えるが、見えない人には見えないのだ。
つまり、分かる事は解るが、分からない事は解らないのだ。
知識も同じだ。
知っている人は知っているが、知らない人は知らない。
極々当たり前の事だ。
その中で、人との関係性に関する事は、私にはよく見える。
だから、この場合のように、「お前は客観的すぎる」という事が見え、だからそこを指摘したのだ。
大方の人は、「????」で自分には見えないから、分からないから、自覚がないからそのまま放っておく。
「武禅」を受講される方々は、見分けられない自分、客観的な自分という事に気付き、そこを乗り越えたいと参加している。
特に常連の人達は、その事を自覚出来るし、向かい合っている人と向かい合えない人との区別が分かる。
この事は社会生活では最も大事な事の一つだ。
私達は、人と話をする時、どちらかというと「言葉の意味、話の意味」に価値を置き会話が進行する。
だから、逆に嘘をつかれても、先ほどの例のように知らない事は知らないのだから、騙されてしまう、あるいは信頼してしまうことになる。
しかし、自分に向かい合ってくれているのか、くれていないのかの見分けが出来れば、そんなことは起こらない。
つまり、自分にとって大事な人なのかそうではないのかを見抜けるからだ。
逆に、自分にとって重要な人のこころに自分を届けたいと思っても届かないのだ。
その事が、分かるから一生懸命に「武禅」に取り組み、お互いに突っ込みあいを繰り返すのだ。
その事も重要なことなのだ。
他人から面と向かって言葉を投げかけられるのは、そういった事に慣れていない人には苦痛だ。
もちろん、本当は苦痛ではなく、逆に気持ちの良い事なのだが、体験が無いから自分の壁が遮るのだ。
その事を体感する、つまり、自分の持つ壁の存在を知るのが大事なのだ。
また、体験の無い事は、どんな事でも苦痛でしかない。
そこを乗り越えるのは自分の自覚、自分の力でなければ無理なのだ。
その意味で、自分自身の本当の意味での人間力を鍛えるのだ。