自分が選ぶけど、選ばれるのか

2014福岡ワークショップ
6月20,21,22日(金・土・日)
http://rbchinoriron.web.fc2.com/workshop.html
来月は福岡でのワークショップだ。
ただ、何時もと日程が違うので、常連さん達の参加は難しいかもしれない。
そこを何とか足を運んで欲しいです!
「選択する」何でも自分で選ぶ。
選んでいる。
その通りだ。
先日facebookに銀座の有名寿司店「次郎」が話題に上がっていた。
値段が「高い」だの、「値打ちが有る」だの何だかんだと、コメントが並んでいた。
その中で「結局は客が選択するのだから」というのがあった。
もちろん、その通りで客、つまり、自分が選択するのには間違いない。
しかし、その逆に店が客を選ぶというのもあり、自分は店に選択されないかもしれない、という考え方を持っていないのが悲しい。
「選択する」というのは「選択される」と表裏一体だ。
全ては相互の関係性で成り立っているのだ。
何でもかんでも、自分の思う通りだと思う浅はかさ。
何事も一方通行ではないのだ。
ナイトクラブのマネージャーをしていた時、丁重にお断りをする客はいた。
店にそぐわない雰囲気だからだ。
「偉そうに」と罵声を浴びせる客もいれば、「すみません」と店を出る客もいた。大きく言えば、そういった棲み分け的な、目に見えない何かがある、ということを感じ取るのは本能の働きでもある。
もちろん、ナイトクラブの場合は、服装や料金という目に見える枠がある。
しかし、それ以上に雰囲気というものも大事な枠なのだ。
今では、そういった枠も少なくなっているのだろう。
何でもかんでも一緒くたになっているからだ。
その昔、ジーパンもオーダーメードの服も似合うような自分になりたい、と思ったものだ。
そこには、ジーパンの世界、オーダーメードの服を着る世界、というものが歴然とあったからだ。
そして、そういう枠を自分で作り出したものだ。
ジャズをやっていた頃も、タキシードを着なければならないステージと、ジーパンでも良いステージとあった。
そういったメリハリを持つ、というのも楽しい枠の一つだ。
何もかも一緒くたというのは、私には性に合わない。

Follow me!