関係は「ような」ではない

ワークショップの「関係塾」では、「相手に話す」、というワークをする。
そこで一番最悪の結果になるのは、決まって役者だ。
これはどこのワークショップでも同じだ。
それは「相手に話す」という芝居をするからだ。
芝居だからどこまでいっても「ような」なのだ。
仕事柄、役者は様々な役をこなしている。
その技術をそこで展開してしまうのだ。
そうすると滑稽な姿が現れるだけだ。
どうして滑稽にみえてしまうのかというと、それこそ相手の人と温度差が生まれているからだ。
相手は自分として真剣になっているのだが、こちらは芝居、つまりわざとらしい表情、口の開き方、声を出すのだから、それを見る周囲が白けて笑うのだ。
しかし、そこを指摘しても、まず修正されることはない。
自分という実体と芝居という技術の狭間が、自分自身で見分けられなくなっているのか。
それとも、芝居そのもので、相手に話すが成立していると思い込んでいるのか。
関係という事自体、何かしら軽く考えているようにしか思えない。
その関係そのものを、舞台という場で表現していなければならないのだが、それは舞台設定や物語、そこに展開される台詞、それらが関係を保証しているだけで、実際に関係されているのではない。
だから、声を聞いていると、まるで吹き替え映画のように、平面的でどこに向かっているのかさっぱり分からない事になるのだ。
もちろん、一般の人にとってはそういった事に着目せず、物語や役者の台詞に思いをかけているから、こういうことはどうでも良い事だ。
だから、演劇やダンスは成立しているのだ。
しかし、そういった芝居が連綿とあったのだから、もうそれはそれで終わろう。
もっと本当に関係ということに取り組もうではないか。
そして本当の関係を舞台で展開し、観客にその美しさを見せようではないか。
そしてそうなりたいと観客に思わそう。
というのが、私のスタンスだ。

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