物事は単純なのに
人は他人が話している言葉の内容が理解出来ない時、当然反応は出来ない。
その無意識的な一瞬を捉え、理解出来る言葉に変える。
それの相互の働き掛け合いが会話だ。
一瞬を逃すと、人は社会的な表情を作る。
あるいは、無表情になる。
それは相手に理解していないことを気付かれない為のものだ。
面白いことに、そうしている自分を分かっていない人も沢山いる。
つまり、自分が芝居をしていることに気付かないのだ。
それは、そういった習慣が長すぎるから、完全に麻痺しているのだ。
その状態になった時、「武禅」では「私の前にあなたはいない」という言い方をする。
あるいは、目の前の人から、観察されているような感じがした時、どこか遠くから覗かれている感じがする時、同じように「私の前にはあなたはいない」という。
もちろん、これも同様に、本人が気付いていない場合が多い。
それは、もちろん本人の習慣ではあるが、その人の周りの人が、その人と本気で関っていないからでもある。
場違いな言動を吐く人に対して、面倒だから指摘しないのと同じだ。
だから、本人は気付きようが無いのだ。
しかし、観察する目や、遠くから眺める目は無礼な目だ。
こちらの気分が悪くなる。
もちろん、他人は「気分が悪い」とは言わない。
教室や武禅、ワークショップでは、めんどくさくなると直接その人に言ってしまうこともある。
もちろん、その人には悪気は無いから、目を白黒させる。
言われた人の大方は、自分の殻の中から外に出て来ない人だ。
だから、他人との関りの中での感動を実感することは無い。
もちろん、自分の殻に取り込んで、感動することもあるが、それは直接的な感動ではなく、殻の中の幻想に感動しているのだ。
と色々言葉にしていくと複雑だが、実際は単純だ。
全ては人や何かとの「接点」、そして、それに対する反応しかないからだ。
つまり、反応ではなく、判断が優先された時、物事は複雑になるのだ。