現実と幻想の狭間
腕が肘なら、足は「膝」で、膝をどうコントロールするかが、足を自在に操る鍵になる。
昨日の大阪教室の身体塾は、ここを集中的に行った。
70歳を越える女性が、膝に集中すると何度目かで膝が動いた。
歓声が上がった。
どうして膝が動いただけで歓声か。
実は、両足を一人ずつが抱えて持っているのだ。
だから、いわゆる一般的な足を動かそうとしても動かないのだ。
ましてや、70歳を越えている女性だから、殆ど不可能だ。
しかし、動かす順番を守り、尚且つ両膝に意識が向いていると動くのだ。
それが歓声が上がったわけだ。
面白いことに、男性人でそれが出来る人は少なかった。
何故か。
自分の膝を意識しているのではなく、意識していると「思っている」だけだからだ。
文字通り「膝を意識する」と思っているのだ。
当然、思っていることなど実際に起こる筈も無い。
この課題は、私が武道を指導しだして発見したものだ。
だから、かれこれ35.6年前になる。
もちろん、それは現象であって、どうしてそうなるのかは分からない。
「それって、思っているだけや」
と良く使う言葉なのだが、実際どうして「思っているだけ」になるのかは分からない。
こうしようと「思う」のではなく、具体的にこう「するだけ」でよい。
その単純な言葉の違いの間に一体何があるのか。
これは心理学の範疇なのか、それとも新しい分野なのか、もちろん、それは私には一切関係が無いが、不思議で仕方が無い現象だ。
専門的な運動などしたことが無い、70歳を越える女性には出来て、武道をやりたいという意思を持って通っている30代の男性に出来ない。
「なんでや?」
ここに持ち出したくない言葉がある。
それは「素直」という言葉だ。
この意味を考えると気が遠くなる。
余りにも広大で奥が深いとも言えるし、非常に単純なものだともいえるからだ。
女性は素直なのだ。
つまり、自分の頭の回路での判断や、価値観を通さずに、自分自身の「膝」に注意を向け、運動に注意を向けていたのだ。
出来ない側の人は、自分の回路を通し頭の中だけで「膝」を完結させているのだ。
つまり、出来ない人は頭の中で作り上げた幻想を、現実だと認識して作業をしている、ということになる。
もちろん、これは単なる推理であり、言葉だ。
だから、「思っているだけやんけ、おばちゃんは出来ているやろ」になる。
ただ言えることは、そういった言葉に対して反応が無いのだ。
その事が、幻想の中に生きていると推理できるのだ。
つまり、自分で取り組んでいることすら、他人事だということだ。
ここの原因が掴めない。
一つ言えるとしたら、理屈っぽい、自分の判断しか認めない、他人の話している言葉を理解出来ない、というような現象があることから、自意識が幼い、未だ子供だということだ。
武禅のお申し込みありがとうございました。
定員を超えてしまいましたので、締め切らせて頂きます。
次回は7月の連休を予定しています。