万全というのは一方的な思い込み

「武道家が語る人間関係の極意」
久しぶりの講演会です。
近畿地方の方は、是非お出かけください。
定員になり次第締め切りますので、早めにお申し込み下さい。
http://ilt.jp/extra01/entry.html

本部に来る、高校バレーの監督さん。
胸骨や肘の練習を部員達にやらせている。
ボールが重くなり、姿勢も良くなったそうだ。
面白いことに、小学生からバレーボールをやっている者と、中学からやりだした者とでは、胸骨や肘の修得に、かなりの差があるそうだ。
もちろん、小学生からやっている人は、修得するのが遅いのだ。
時間と共に、フォームが身に付いてしまっているからだ。
後は、頭を切り替え、相当練習量をこなさなければ、その山を越えるのは難しい。
おまけで、息子さんは中学生で野球をしている。
ボールを投げるのも、胸骨と肘だ。
贅沢を言えば、足からの連動が良い。
それは出来なくても、身体全体のバランスを崩すことや、胸骨と肘が意識されるだけで、肩や肘の傷みも少なく、ボールのスピードも違う。
もちろん、既成のボールを投げるフォームではない。
しかし、ある意味でフォームなどどうでも良い。
大事なのは、身体として合理的なのか、重力場という大前提があるのだから、それに対して合理的かどうかだけだ。
そこをクリアするならば、どんなフォームでも良いのだ。
どんなことでも、大前提を無視しては話にならない。
いくら早い球を投げる投手でも、打者から球の出何処や、球種を見破られたら打たれてしまう。
それも投手であれば前提条件だ。
だから、人生であれ社会生活であれ同じだ。
人との関係の中で生きている、というのが前提だ。
しかし、言葉としてこれらの前提条件を並べることは出来るが、実際はそこをクリアーするのは相当難しい。
打者に見破られる、と言っても、どこを見破られるのか解らない。
関係の中で生きている、といっても、どんな関係になるのかは、さっぱり解らないのだから。
だから、いくら自分が万全だと思っても、思わぬ落とし穴がある。
だから、「万全」だという考え方を持っていると、挫折してしまうのだ。
「万全」だというのは、あくまでもこちらからの一方的な思惑なのだ。
明日から「武禅」だ。
そういった事の実際を稽古する。
連休だから、道路も列車も混んでいる。
それに疲れないことを祈って。

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