勘違いかも

「武道家が語る人間関係の極意」
久しぶりの講演会です。
近畿地方の方は、是非お出かけください。
定員になり次第締め切りますので、早めにお申し込み下さい。
http://ilt.jp/extra01/entry.html

例えば、肘を放るという練習、例えば、膝を使うという練習、例えば、胸骨を操作するという練習。
これらは、身体の各部位に意識が向く為の、そして、それらを感覚化する訓練だ。
だから、始終そのことを行ない、それらを感覚化出来る様にする。
日野武道研究所の定番の基本練習だ。
しかし、それが出来たところで全く意味が無い。
それらを型や、それらを用いた全ての動きで使えることに意味がある。
ダンスで言えば、振り付けられた色々な動きに使えて、初めて意味を持ってくるものだ。
もちろん、それが出来れば動きの質は大きく変わる。
色々な身体のニュアンスを出せるようになる。
だから、肘がいくら放れるようになったところで、突きの時、あるいは、腕を使う時に、肘が放れていなくては意味が無いのだ。
その各部位の訓練を、全体の動きに使えるようになるのか、使えるようにならないのかは、全て自分次第だ。
使えない人は、完成品を貰うことに慣れている人、それを当たり前だと思っている人、使えるようになるところまで教えてもらえると思っている人。
つまり、自分の力で工夫を重ねる、ということを知らない人ということだ。
別の角度から言えば、肘が放れなくても、別段不自由ではない人、自分に違和感を持たない人なのだ。
元から自分自身にそれらを練習する何の必然性もないのだから、実は練習をやる必要など全くないということだ。
それも、自分の頭(思い込みや勘違い)に、振り回されているからなのだ。
「これをやらなければ」という思い込み、「これをやれば自分はどうにかなる」という勘違いだ。
難しい課題、複雑な課題に出くわすと、そういった事が見えてくる。
それが、簡単に出来ることであれば、そういったことはまず見えてこない。
つまり、簡単に出来ることであれば、自分を見ることは出来ないということだ。
もちろん、自分を見たくない人は見なくてもいい。
但し、他人からは見えている。
それは何時も書いているように、他人からは見えているが、誰もそのことは言ってはくれない。
だから、思い込みや勘違いが暴走してしまうのだ。
「武禅」では、そこを突っ込まれるから自分に気付く。
もちろん、そこに強固な壁というか、防衛本能が働きガードする自分がいる。
それに気付けば、それはそれで良いのだ。
ここで防衛本能と書いたが、もちろん、それは間違った防衛本能だし、それは自分自身が作り出している、本能とは関係の無いものだ。

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