落ち込むのは自己満足

■今週末は2年ぶりの岡山のワークショップです
9月21.22.23日です
西日本の方は是非参加して下さい。会場が広いのでまだまだ空きがあります!
http://workshop.digiweb.jp/

明日は、岡山でのワークショップへ出発。
ワークショップが続くと、どこでやっているのか分からなくなる。
何日目なのか、どの程度の突っ込みでいくか、混乱してしまう。
東京ワークショップの打ち上げで、役者の一人が、
「先生は、自分にとって非常にタイムリーなところで、ワークを変えたり、ヒントになる話をしますが、それはどうしてですか?」ときかれた。
当たり前のことだが、一つのワークを提供し、全員の実力や興味の浅深を見ているからだ。
そして、教室全体の雰囲気に注意を向けている。
だから、それぞれの人にとって、タイムリーなヒント、あるいは、興味が薄れてきたのが、又興味を持てるようになるのだ。
つまり、決して「ワーク」そのものの質だけで、ワークショップがあるのではなく、そういった関係性を持って進行しているのだ。
だから、このワークを何分して、次にこれ、そしてこれに進むという、杓子定規なものなのではない。
そういった、場全体を体感する、という事もワークの一つなのだから、それを提唱している私が実際として、それをやっていないのであれば、話にならないだろう。
そのように全体を体感し続けているから、かなり疲れるのだ。
毎晩、バタンキュー状態になる。
単にワークを提供し、動いたり声を出したりしている分では、疲れることも無い。
一つのワークでも、それらは「身体塾・関係塾・表現塾」と全部に関っているし、そのワークをするにあたって、色々な人と組むが、それも関係性の稽古だ。
やりにくい人、やりやすい人色々いる。
それを体験していくのも稽古だ。
自分が閉ざしているからやりにくいのか、全く違った価値観を持った人だからやりにくいのか、そのやりにくさも色々ある。
そんな事も、全部ひっくるめてワークショップなのだ。
ただ、一生懸命に取り組むが出来ないのと、適当に取り組んでいて出来ないのとでは、全く違う。
適当に取り組んでいる人を、見分ける力の無い人は一寸困る。
適当な人に「稽古が出来ません」と指示できないからだ。
東京のワークショップでも「それ適当でしょう、適当にするのなら意味が無いから、帰られたらどうでしょう」と口にした。
それは、相手の人に迷惑をかけているからだ。
一生懸命だから、出来なくても良いのだ。
そして、そのことは誰にでも伝わる。
だから理解してもらえるのだ。
そして、一生懸命だからこそ、そこで何かを掴めるのだが、適当だと出来るも出来ないも無い。
ただ、周りに、相手の人に迷惑を掛けているに過ぎないのだ。
ということを認識していない、といことを知るのも私のワークショップだ。
知れば直ぐにやり直せばよい。
決して落ち込む暇を作ってはいけない。
深刻になる暇を作ってはいけない。
それらは、単なる「脳の自己満足」に過ぎないからだ。
ワークショップとは対照的なのが「武禅」だ。
対照的というのは、「関係性」そのものだけを取り上げたのが「武禅」だからだ。
そこを2泊3日間突っ込む。
秋の「武禅」も近づいて来た。
今年は、10月にしたので、まだ気候的には厳しくない。
知らない人同士が「正面向かい合う」、時間が経つに連れ、それが気持ちよくなってくる。
そうなると、日頃は他人と向き合っていないということに気付きだす。
そこが新しい人生の始まりだ。
人生、何度でもやり直せるから面白いのだ。
秋の「武禅」は10月12,13,14日です。
https://www.hino-budo.com/buzen1.html

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