何が表現されているのか
■東京ワークショップ
9月13,14,15,16,17日
16.17日は、表現者の為の特別教室です。
場所も、何時もの新木場マルチスタジオです。
https://www.hino-budo.com/index.html
お知らせにあります
20年ほど前、企業研修の中で「自己紹介」と自分の職種の説明というのをよくやった。
但し、職種は誰にでも理解出来るように、という条件を付けた。
誰にでも、というのはその職種を知らない人でも理解出来る、という意味だ。
見事に説明できる人、何を言っているのか分からない人、色々いる。
何を言っているのか分からない人というのは、自分で話している内容も与える印象も、自分は知らないのだ。
常に、自分の世界の中で完結しているのだ。
つまり、客観性が欠落しているということだ。
ということを指摘しても、もちろん分からない。
この差はどこから生まれてくるのかは分からないが、何を言っているのか分からない人は、社会生活が上手くできないか、というとそうでもない。
ハチャメチャなことを言っていても、その事が周りに笑いを誘ったり、応援の声が掛かる人がいる。
逆に、周りがどんどん引いていくというか、暗くなるというか、白けるというか、そんな人もいる。
もちろん、前者はいわゆる愛される人、憎めない人と呼ばれ、社会生活は上手くいく。
後者は、当然その逆だ。
そんなことを考えると、結局のところ人生は、生来の性格が大事だということになる。
しかし、生来の、というのは当てにならない。
というのは、人生を歩く中で色々な出来事と出会う。
その事が影響して、人が変わったようになる人もいるからだ。
また、先ほどの後者、つまり、周りが引いたり白けたり、暗くなったりという人は、偏向的に理屈っぽい。
言葉遊び的理屈だ。
現実にそぐわない、起こっていることとそぐわない、屁理屈だ。
自分の世界の中から一歩も出て来ないから、屁理屈だとは思わないし当然話は通じない。
その人に「その言葉使いはおかしいから、もっと普段どおり話してみて」と指示を何度も出したが、そのことが分からないから、ずっと同じ調子だった。
見かねて「今、あなたは皆に何を表現していると思いますか」とたずねた。
「職種の紹介です」
「いや、それは話の内容でしょう、そうではなく、あなたは皆からどう見られているのか、を分かっていますか」
「……」
「自分がどれだけ馬鹿か、を証明しているんですよ。もし、自分がそうみられたくて、そうしているのならそれは完璧な表現です。どこで身につけたのか、誰に教わったのかは知りませんが、損をしていますよ」
その人は、何を言われているのか分からないから沈黙。
周りの人達は、思い当たる事があるから深い沈黙になった。
自分が何をしているのか分かっていない、というのは、こういうことだ。
人は、自分の思っていることを、他人も同じ事を思ってくれていると妄信的に信じている。
その言葉を読めば、誰でも「あり得ない」と思うだろう。
しかし、実際の日常ではどうだろう?
もう一度、日常を振り返る必要がある。
また、表現者はどうだろう。
客観的な目、観客の目を持っているのだろうか。
自分が他人からどう見えているのかを。
■1年ぶりの岡山のワークショップです
9月21.22.23日です
http://workshop.digiweb.jp/