やっと回復
誕生日の2月4日から、完全に身体はダウンした。
久しぶりの、震えが来る風邪だった。
咳もひどくどうにもならない。
ほとんど断食状態で、今日の昼辺りから、やっと通常の食事に戻った。
もちろん、バリバリではない。
ま、これはこれで、一寸ゆっくりしたかな、という感じだ。
寝ている時「意識」ということを考えていた。
その意識の現れの一つとしてある声。
私は、人の声が気になって仕方がなかった。
声は、何が形成しているのか。
あるいは、形成しないのか。
もしくは、発声練習などを通して作られた、いわゆるきれいな声、透き通った声は、人の声なのか。
それは音であって声ではない。
そんなことを考えていた。
声と言葉が全く合っていない。
いわゆるチグハグな感じな場合が多い。
もちろん、言葉は知識があれば、あるいは、何かを記憶していれば、自分とはかけ離れたことをいくらでも話せる。
そのチグハグは何なのか。
そんな事が気になって仕方がなかったのだ。
結果、声とは、自分自身の感情溢れる体験、人との、あるいは、人生の諸問題との正面からの対立。
それらの体験が声を作り出しているのだと気付いた。
そこが未熟な若い人の声は、スカスカなのだが、言葉だけは相当ややこしいことを話す。
国会議員でも、そこに焦点を絞って聞いていると、口先だけの人間と、人生の裏づけのある人間の違いが明確に分かる。
そう、声も嘘をつけないのだ。
演劇で役者は声を出す。
どれもこれも嘘くさくてイライラする。
それは、嘘だからだろう。
演劇ととしての嘘なのではなく、声を出しているに過ぎないからだろう。
どうして声を出さなければいけないのか。
声は出すものではなく、出るものだ。
そんなことも、ウロウロと考えていた。
いずれ、この答えは出てくるだろう。