未来は
晦日から友人が来ていた。
ゆっくりと話をするのは、30数年ぶりかもしれない。
久しぶりに、賑やかな晦日、ゆったりした時間が流れた年越しだった。
この友人とは、ほんとに色々と人生を共有した。
楽しいこと、苦しいこと、アホらしいこと、どうでもいいようなこと、かなり危険なこと。
共にそれらを体験した。
その時にしか体験できないことを体験した。
体験しなくてもいいようなことも、無理やり体験したことの方が多いが。
彼が「俺が新しいバンドに入って、馴染んで来たかな、居心地が良くなったかな、と感じ始めた時、いつもアキラが現れて、『こんなバンド辞めてまえ』と言ってたやろ。『なんでそんなこと、言われなあかんねん』と思いながら、その都度辞めたりトンズラしたりしたけど。その時、それを言ってくれていなかったら、今の俺は無い。怠惰な人間になっていたとつくづく思うよ」としみじみと話した。
その当時は、私には他意は無かったし、そんな先のことなど見通せるはずもない。
ただの直観だ。
一つの言葉で、行動を発生させたり、させなかったりだが、そのどちらもが現在を、そして未来をすでに形成している。
絵にかいた目標や目的も未来を作り出すだろうが、それよりも、その目的や目標を持った自分自身の性癖が、すでに未来なのだ。
つまり、人の本質は変わらないということだ。
だから、変える必要などどこにもない。
ただ、深くなれば良いだけだ。
友人とは一つ違いだ。
共に年を取り、先に輝く何かがある訳ではないし、別段そんなものは求めていない。
逆に否定しているくらいだ。
「孤独死という言葉は変やな、誰でも死ぬときは孤独やで、自分が死ぬだけやから」
「当たり前や、周りに人がいるのか、いないのか、だけで、死ぬ本人には分かる訳ないやんけ」
これは昨日の話ではなく、20代の時にもこの友人と交わしていた会話だ。
むろん、孤独死という言葉は無かったが。
だからこそ「生きようぜ!」なのだ。
ふと共通の友人の話になり、「あいつは死んでいく覚悟は出来ているんかな、それがあるのだったらいいけど」と。
友人の人生の時間はリアルだ。
改めて友に教えて貰った。