選択は

日々、色々な場面に出くわす。
その時々に、何らかの選択をしなければならない。
外食の時、一寸一休みの時、数え上げたら切りが無い。
私自身の事は棚に上げ、人を観察していると、どうしてそちらを選ぶのか、と疑問に思う事が多々ある。
一番典型的なのが賭けごとだ。
競馬でも負けがこんでくると、一発で取り戻そうとする。
その結果、自分にとって都合の良い馬券を買う。
つまり、それが入ると負けを取り戻し、尚且つ儲かるという一発逆転出来るからだ。
そんな時は、往々にして外れる。
人は何かを選ぶ時、自分にとって最も都合の良い事を考え、それを選ぶのだろう。
もちろん、同じような状況でも、一発逆転をする人もいる。
その差というか、違いは何なのだろう等と、何時も考える。
もちろん、答えは分からない。
しかし、こんな場合でも、結果論として様々な理屈をこねる。
それは、自分を正当化したいからだ。
そして人は「分からない」ということに、不安を感じるからではないだろうか。
とも考える。
私の口癖は「そんなもの、分かる筈ないやろ」だ。
分からないこと、不確かなことをいくら考えても無駄だからだ。
それよりも、分かる事を追及する方が楽しい。
例えば、この場合だと純粋に馬の状態や経歴だけから馬を選ぶというようなことだ。
あるいは、予想屋や新聞の指摘する通りに買う。
そうすると、自分の予想では無いから、賭けごととしての面白みは無くなる。
賭けごとが好きだから、自分で選ばなければ意味が無い。
それはその通りだ。
しかし、まず賭けごとに自分は向いているのかいないのか、を知る必要がある。
それは、自分の過去を振り返ればよく分かる筈だ。
トータル負けている、としたら、あるいは、賭けたことに少しでも後悔の念が起こるようであれば、それは向いていないということだ。
つまり、分不相応ということだ。
分相応、不相応というのを、自分で知るのは難しい。
だから過去を振り返らなければ仕方が無いのだ。
分相応の選択。
それは自分では「分からない」。
コーヒーにするか紅茶にするか、牛丼にするかトンカツにするか、うどんか蕎麦か。
そんなリスクの少ない選択から、自分を客観的に観るクセを付ければ良い。
と書きながら、改めてそれをやってみようと思った。

Follow me!