意識という壁
昨年のRealContact公演は、私も出演した。
当初は一つの単語だけで芝居を作れないかと考えたが、残念ながら反応できる役者はいなかった。
一つの単語だからこそ、その裏に情緒や物語を織り込めるし、決まった単語だからこそ反応に手間取ることは無い筈だが。
しかし、全員自分のやりたいことをやるだけで、反応しているのではなかった。
それを見ていて、色々な芝居や映画の一コマが頭に浮かんだ。
そうか、あれは反応しているのではなく、自分のやりたいことを抜群の段取りでやっているだけだ、と理解できたのだ。
違和感が残ったり、間が悪いのは反応出来ない事が原因だった。
あるいは、意識的に言葉を出そうとしている結果が原因だ。
それで、急遽平岡さんと動きとして一つのモチーフを作り、それを即興的に展開する方法を取った。
それは、私がドラムでソロをする時に行う方法だ。
一つのモチーフだけを設定し、その場でそれを展開させて行く手法だ。
集合即興演奏の時も、それぞれにモチーフを与え、それをそれぞれが展開させる。
そこで起こるアンサンブルの面白さを追求した。
もちろん、それは私たちの社会や人生、果ては宇宙そのものの働きと同じだ。
それぞれの人生があるが、例えば、会社という一つの世界に集まり、共同作業をする。
それと同じだ。
今回の公演も、基本的にはその発想だ。
だから言葉を音楽として捉えてみた。
そこから台本を作り上げた。
それぞれの世界をそれぞれに歩くのだ。
結果、一つの作品として姿を現してくる。
もちろん、武道でも同じだ。
一つの形が、無限の変化をする。
あるいは、させていく。
そこの核になるものが反応だ。
多分武道が一番シビアな反応を要求される形式だろう。
それはそこに生命が素っ裸であるからだ。
しかし、生命が素っ裸でそこにある、というのは言葉でしかない。
それを自分として明確にしなければ、残念ながら「そこにあるだけ」で、自分には無い。
したがって武道という稽古にはならないのだ。
つまるところ、全てはそういうところで行き詰る。
「自分には無い」が言葉としては知っているし持っている。
ここの溝、あるいは壁が意識なのだ。