自分の欲求
昨日の「教室でするどんなことでも一緒なんですけど、相手の人とやる前に、『できる』と感じる時と、『これはあかんやろ』と感じる時があるのですけど」を悔しがった一人は、どうしてそういった感覚を掴めないのか。
それは、その時々のテーマや習っていることに対して「出来る、出来ない」という判断でしか取り組んでいなかったからだ。
つまり、出来るようにという欲求は、新しい感覚を育てないということだ。
ここのところの言葉での説明は難しい。
K君も出来るように、という欲求はある。
しかし、その前に身体としての約束がある。
それは、例えば胸骨運動や縦系の連動他という、個人的な身体感覚の練磨。
それに、相手に動かされる他の、他の人との関係性の練磨のことだ。
それを主要な目的として取り組んでいたのだ。
その前提の上で「出来る」ということにチャレンジしていたということだ。
結果、出来るではなく「出来た」になった。
だから、冒頭の微細な感覚を手に入れられたのだ。
悔しがった人は、その前提を抜かしての欲求先行で「出来る」なのだから、感覚も何も手に入る筈も無いのだ。
同じ事をやったとしても、そこで自分自身がどんな欲求を持っているのか、あるいは、どんな取り組み方をするのか、その事で天と地程の差が現れる、ということだ。
という、稽古の方法を教えるのもワークショップだ。
東京ワークショップの会場は広いので、まだまだ申し込んでも大丈夫です。
9月15.16.17.18.19日東京ワークショップ
https://www.hino-budo.com/