既に

一番重要なことは、既にそうなのか、改めてそう思うのか、のところだ。
何の話かと言うと、例えば、ダンスで相手の目を見るとする。
その時に、「相手の目を見て」と指示を出す。
そうすると、相手の目を見ることでダンスが生きる。
しかし、改めて目を見ると「思って」目を見る。
すると、もちろんダンスは死ぬし、恐ろしいほどの違和感がそこに見えてしまう。
ここの境目は、残念ながらセンスとしか言いようが無いのではないかと思う。
既にそうなっている人にとっては、「相手の目を見て」という指示が、単なるキッカケなのだが、思ってしまう人にとっては、そのことは自分が持っていない言葉であり感覚なのだ。
だから、「改めて思う」という判断の側で進めなければならない。
当然、判断された事というのは、ぎこちない。
既にそうである人、キッカケに過ぎない人というのは、「目を見る」というキッカケを通してダンス全般を見直せた人と言えるだろう。
その意味で、「既にそうだった」という言葉が適当なのだ。
判断した側の人は、既にそうではないので、改めて本当に「目を見た」それだけで、そのこととダンスとは繋がっていないし、ダンス全体を考えるというところにはいかないし行けないのだ。
もちろん、そのことも含めて話をしたとしても、結局全ては現れた言葉しか記憶されない。
現れた言葉からダンス全体に繋げることは出来ないのだ。
これは全ての事に当てはまる。
どんなことでも、指示されたり、あるいは、言葉を仕入れたりする。
その時に、ここでいう二つの方向に人は進む。
大方は判断側から入ってしまう。
もし、そこから入れば即仕事、即戦力にはならないのだ。
既にそう、というのは、素直ということかもしれない。
しかし、その言葉を聞いても、やはり判断側が働いてしまうだろう。
それは素直なのではなく、素直にしようとしているだけだ。
だから、素直ではない。
そんな突っ込みを入れながら、ワークショップは進んで行く。
9月15.16.17.18.19日東京ワークショップ
https://www.hino-budo.com/

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