会話は創造

今日は夕方から平岡さんと打ち合わせをする。
早速アイディアを出し合っておこうということだ。
当たり前だが、打ち合わせは言葉で行う。
その言葉は、出所が違うので当然すれ違いも起こるし、誤解もある。
そこを推察しあい、補い合いし言葉の実体としての共通点を見出す。
あるいは、本質を導き出す。
それが会話だ。
だから、会話そのものが創造なのだ。
しかし、会話そのものが創造だという事を、実際に共有できる相手は限られている。
大方は、相互一方通行に終わる。
つまり、すれ違いも誤解もそのままだということだ。
それはあらゆる面で好奇心が希薄だからだ。
だから、相手の言葉を鵜呑みにするか、自分のレベルに押し込んでしまうかのどちらかしかない。
そのことは、小学生レベルの会話に等しい。
いくらこ難しい言葉を使っていても、そこにある会話レベルは小学生だ。
であれば、会話による創造など起こるはずも無い。
そうか、会話とは創造だとは気付いていないのか。
体験の中で、そういう気付きが起こる出来事が無かったということか。
いや、求めていないということだろうか。
打ち合わせは、脱線につぐ脱線になる筈だ。
人はその脱線を無駄だという。
脱線こそが創造の源だとは知らないからだ。
脱線、つまり、精神的余裕が何よりも一番大事なのだ。

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