あっそうか、よりもひたすら

このところ武道塾の方は人の入れ替えが少ないので、初期の稽古に戻している。
ひたすらやり続ける、というパターンだ。
ごちゃごちゃ考えずにひたすらやる。
本当は、こういう稽古は自主練としてやって欲しいのだが、残念ながら現代人は忙しくてやれない。
そういう私も現代人だった。
ひたすら、という話は、稽古後の食事の時にも盛り上がった。
ひたすらの効用は、その要素を身体を通して気付く事ができることだ。
だから、その後の人生で応用する事が出来る。
そのひたすらの逆の「あっそうか」を追求し、あるいは、持論を展開する事にやっきになって、何らかの成果を出したとしても、身体で考えるというおまけはつかないのだ。
ひたすら、というのは現代的ではないというような風潮がある。
もちろん、風潮は私にとってはどうでも良い。
ひたすらやらなければ、自分の手で自分の身体で気付く事が出来ないからだ。
気付いた事をひたすらやる。
そうするとまた気付く。
その気付いたことをまたひたすらやる。
それの繰り返しだ。
その後また振り出しにもどる。
そうすると、ひたすらの蓄積が新たな何かを閃いてくれる。
時間を管理するのではなく、時間の奴隷になっているとそれは出来ない。

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