ふれる

「身体」というもの、それは「わたし」と二重構造になっているからややこしい。
しかし、明らかなことは「わたし」は「身体」の中にあるということだ。
もちろん、だからこそ混乱してしまうのだが。
そこから言えば、決して「肉体」と呼ばれる筋肉経路だけで形成された化け物ではないことは確かだ。
また、身体運動を運動分析、あるいは、構造分析だけでとらえられるものでもない。
もっと、突っ込んで言えば、様々に分担された医療や、気持ちという得体のしれないものを解析する心理学でもとらえることは出来ない。
捉えられるとしたら、それはあくまでも画一的、平均的な身体であって、千差万別の身体ではない。
その身体が、他の身体と接触したり、近寄ったりということが日常である。
それを違う角度から言えば「ふれる」ということが、日常を支えている。
もちろん、全ての人はそのふれるを繰り返すことで、日常が成立している。
しかし、ふと考える。
「ふれる」は「ふれられる」と対である。
それは言葉も同じだ。
独り言や寝言は別として、言葉は大方の場合、わたしから「誰か」に向けられている。
だからふれると同じ「言った」「言われた」という対だ。
私は日頃、言葉の意味の理解しあいをコミュニケーションとは呼ばない、と言っている。
それはあくまでも、コミュニケーションのきっかけであったり、伝達にしかほかならない。
もちろん、伝達をコミュニケーションと呼ぶのであれば、それはそれでよい。
そこには、「ふれる」という大事な要素が入っており、私はそのことをコミュニケーションと呼ぶ。
言葉が琴線にふれるという言葉があるくらい、言葉も直接身体に働きかけてくる。
しかし、それよりも意味や理解が先にたち、身体に働きかけられたものには気付かない。
例えば、「こんにちは」という言葉一つとっても、言われて嫌な気がする、気分が悪くなる、腹が立つものもあれば、晴れ晴れとした気持ちになるものもある。
しかし、そのことよりも意味や社会的な立場が優先され、身体に起こる反応には目を向けない。
身体の中に「わたし」があるにも拘らずだ。
どうして?
4月20日からの京都ワークショップ
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https://www.hino-budo.com/2012-KYOTOWS.htm

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