自分に興味がない
教育関係者やダンス関係者からよく聞く言葉がある。
「身体性」あるいは「身体」「共振」等だ。
何の話かと思って、じっくり耳を傾けると全く意味不明だということが分かった。
きっと、その世界では流通している言葉なのだろうが、その世界以外の私にはさっぱり理解できない。
医者が医学の専門用語を使う。
これはそれこそその世界で流通している言葉だが、その世界以外の人も勉強すれば理解出来る。
では、この二つは何が違うのか。前者は情緒的な事を単語化しているだけで、後者はその世界の共通言語、つまり、その世界の人なら誰でも知っているという違いだ。
前者の情緒を単語にしただけのものだから、AさんBさんが使っても共通認識は無い。
というよりも共通認識があるのか無いのかの判定を会話の中で展開しないから、確かめようが無いのだ。
私自身が「身体」という言葉を使うから、同じ漢字同じ発音の場合は気になって仕方がない。
だから、突っ込んで話をし確かめる。
すると、そこにその言葉を絶対に使わなければならない必然性が無いことが見えて来る。
医者の世界で「胃潰瘍」を「脳梗塞」とは言わない。
当たり前だ。
胃潰瘍には胃潰瘍としなければとんでもないことになるからだ。
単語とは、あるいは言葉とは、ある意味でそういった側面も持つ。
そこに定義もないような言葉を軽々と使うのが理解できない。
もちろん趣味で使ったり、他人を煙に巻くのに使うのは結構だが、その言葉を頻繁に使う事で、自分の思考が迷走したり混乱するのが怖くないのだろうか。
それすらも気付かないのかもしれない。
自分自身に全く興味がないとしか言いようがない。
共通認識を持てない単語をどうしてその世界の人達は使いたがるのか。ものごとを曖昧にしておいた方が実際として検証出来ないから