ワークと舞台の隙間

ストックホルムでは、全く違う意味で有意義な時間を過ごせた。
それは、フィンランドから通訳に来てくれていた武田さんと、結構深い話が出来たからだ。
武田さんはアメリカに渡り、演技の勉強をし、現在フィンランドで活躍をしている役者だ。
役者のワークショップについて、色々と聞けたことが良かった。
それは、アメリカのワークで、現在急激に広まっているというワークから、日本の鈴木メソッドまで聞けた。
しかし結局、ワークと実際の舞台との間に隙間があるということが分かった。
もちろん、ワークをそのまま舞台に持っていけるものではない。
その意味での隙間ではなく、表現という隙間があるのだ。
つまり、根本的に「表現」についていのワークが無い、ということだ。
発声も身体技術も、セリフの話し方も、感情表現も(これは間違っている)あるのだが、舞台に立つということ、一体観客は何を観ているのか、に対しての表現ワークであり、表現の基本が無いということだ。
「どう見えているのか」「どう見せたいのか」
に対して、ワークが無いのだ。こうしたい、ああしたい、は山ほどあるが、こうしたい、は、そう見えているのか、に対してシビアな視点が無いのだ。
それは、ダンスとて同じだ。
ということに気付かないのは何故だ?
そんなことを考えると、私のいう武道の実際、相手に見破られたら終わり、というところからの身体や意識の作り方は、ここの根幹を射抜いている。
だから、役者さんや俳優さん達とも話が出来るし、他の分野での表現に関っている人達とも話が出来るのだ。
当然、その事がまた武道に返還される。
つまり、私自身の糧になっているということだ。
武道は、昔は武芸とよんだ。
武芸を追及する人を武芸者とよんだ。
とすると、読んで字の如くまさに武芸だ。

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