至難の業
足を踏ん張るのは、転げない為、投げられない為、押す為、投げる為、等々の方法の一つだ。
そこの要素の一つは、自分の身体の安定がある。
それは無意識的な機能も働いているが、自分自身の目的意識や欲求も同時に働いている。
もう一つ重要なことは、固定観念もそこに絡み、現われとしての肉体運動になっている。
それらを検証することなく、年齢を重ねていることが、癖として定着している。
もちろん、足を踏ん張るということで、目的を達成できることも多々ある。
その事が、自分自身の確信として定着するから、余計に癖が強固になるのだ。
例えば、投げられない為に足を踏ん張ったり、それなりの肉体操作をしたとする。
そして、投げられなかったとする。
そうなると、足を踏ん張れば投げられない、と確信する。
しかし、それは自分を投げるだけの力の無い人、自分よりも技術の劣った人に対して、その方法が適応されただけだ。
そこに歴然とした体格差や、筋力差があれば、そのことは通用しない。
だからこそ、全く違う角度から考えていかなければならないのだ。
しかし、違う角度からというのは新しい発想ではない。
昔からそういったこと、例えば足を踏ん張らないは存在している。
ただ、そうするのが難しいのだ。
その難しさは、先ほどの様々な要素が、自分自身に定着しており、そのままの自分でも通用する場合があるからだ。
[[youtube:QPl6C5RhDH0]]そこに新たな概念を持ち込む、つまり、積み上げてきた自分自身を否定しなければならないのは、至難の業だということだ。