比較から生まれる
器械体操をやっていたせいか、またそれを独学で修得してやろうとしたせいか、同じものを比較するという習慣が身に付いた。
当時は鉄棒の振り出し、大車輪、跳馬の山下跳びetc.。
その習慣は、当時ギター少年もしていたのだが、そこでも一つの曲を、色々なアーチストが演奏するのを探し聞き比べをした。
もちろん、まだまだガキだから好き嫌いで選んでいた。
しかし、「これは違う」と直観的に発見したものもあったが、何が違うのか、言葉はまだ無かった。
例えば、エレキはベンチャーズから始めたのだが、アストロノウツを知り、彼らのレパートリーから「what’d I say」という曲を知った。
今度は、その曲から多くのミュージシャンを知ることになるのだが、レイチャールズを始めて聞き「これは違う」と、たちまち虜になった。
という具合に、どんどん視野が広がっていった。
仕事をしている時も、例えば、シェーカーを振る、というのを、色々なチーフ達を見て工夫をした。
そういえば、巣鴨の青果市場で働いていた時、大八車を引くのも、市場で働く多くの人達を見比べて覚えた。
ドラムの奏法も音楽自身もそうだ。
その頃になると、ピンと来るもの来ないものが明確になっていた。
当時何時も、たむろしていたジャズ喫茶で、ラテンの音楽が流れていた。
ピアノが耳について仕方が無かった。
「これ、ええやんけ」それは、チック・コリアの演奏だった。
もちろん、まだ無名だ。
という発見もあった。
耳が鍛えられていっていたのだ。
もちろん、武道でも同じだ。
「良いものを観ろ、聞け、触れろ」の鉄則だ。
結果、異分野も並列で並べることに対して、違和感を持たなくなった。
それが視野が広がったということだ。
好き嫌いを超えて、感じたことを言葉に変換していく。
そして読み返す。
その作業は、自分の中の枠をドンドンはがしていくことに繋がっていった。
共通項の発見や、最大公約数的発見。
それらが、物事の本質を見極める目や耳を養っていった。