自分評論家
ここ数年の傾向だが、レポートを読んでいて気になるのは、自己評価、自己分析、自己説明、カリキュラム説明が並ぶことだ。
まるで、評論家、まるで他人事だ。
また、医者に「あなたは胃潰瘍ですよ」と病名を付けられて安心したり納得しているのと同じだ。
どうして胃潰瘍だと告げられたら安心できるのか。
もちろん、胃潰瘍だと知ることで、その対処を絞り込むことが出来る。
しかし、そういう創造的な納得でも安心でもない。
もちろん、そんな人もいるが数は少ない。
ただ安心しているだけなのだ。
それらの説明は、的を射てるから面白い。
それだけ分かっているなら、それを解決したり乗り越えたりする手段を講じろ、と言いたくなる。
しかし、自己評価された言葉に対して、憤慨したり、不甲斐無さを感じたりという、感情が見えてこない。
あくまでも「~そうなんだ」で終わっている。
どこで、ボタンを掛け違えているのか。
多分、幼児の頃から「言ってきかせる」的家庭教育の結果だろう。
実体の感覚よりも、言葉が優先してしまっているのだ。
だから、自分のこととなると、実際の行動としてどうすればよいのかが体験されていない、あるいは、体験の量が少ないので浮かび上がってこないのだ。
自分に対する感情が育っていないし、教育されていないのだろう。
感情とて育てるものだと、言ってきかせているのかもしれない。